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こちらのほうでは、カトリックの信者の方に向けて、「カトリックに関する文書」についてまとめてみたものを少しずつ掲載していきたいと思います。とても大切なことが書かれていますので、ぜひ読んでみてください。 

 

※「サマリヤの女」(カトリック教会)に関して聖書が語られているメッセージ 

聖書箇所:ヨハネの福音書4626

 

6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。”  

 

井戸は水を汲む場所です。水は聖霊のたとえです。つまり、このサマリヤの女の話は聖霊の大傾注と関係がある話なのです。

 

”7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。

 

サマリヤは北イスラエルの首都です。このサマリヤという一語に大げさに言えば、北イスラエルの万巻の歴史が含まれている、反映されていることをとらえて下さい。新約聖書に書かれている、サマリヤ、カナン、バビロンだのの地名や、サウル、イエス(ヨシュア)だのの人名は、その時、単独に新約に現れているというものではなく、その裏に旧約の長い歴史を含んでいることをとらえて下さい。

北イスラエルは今のカトリックの予表ではないかと思います。もしそうなら、この女は、カトリックと関係があります。

さて、ここで主は「わたしに水を飲ませてください」とこの女に頼みます。

ですから、水を飲むこと、聖霊が下ることは主御自身の願いであることを知るべきです。

かつての日、「この火すでに燃えたらんには、我何をか望まん」と火、聖霊の火が下ることを願われた方は今の時代もこの水、聖霊の雨を望んでいることがわかります。

 

”9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。・・

 

「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあい」をしていませんでした。今のプロテスタントとカトリックもつきあいがありません。しかし、終末の日に関わりができてくるようになるでしょう。

また、このサマリヤの女はユダヤ人であるイエスが、水に関係したことで彼女に語ったことをいぶかしがりました。しかし、このこと、終末の聖霊の大傾注に関連して、プロテスタントがカトリックとが関連することは終末の日に起きてくるでしょう。

 

”10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 

「もしあなたが神の賜物を知り」と主は言われました。多くのカトリックの人々は、聖霊による賜物、恵みに関して、よくわかっていないかもしれません。しかし、その日、知るようになるでしょう。

「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」と主は言われました。

 

このサマリヤの女はイエスを知りませんでした。主は「イスラエルの家の失われた羊」のために遣わされたのに悲しいことにこの女は主を知らなかったのです。同じように今のカトリックの人々はこの方を知らないのかもしれません。彼らはヒンズー教や、仏教の教えまで学びながら、しかし、この方を目の前にしてもこの女のように、彼が誰だか分からないのかもしれません。しかし、その日、彼らはこの方を知るようになります。

 

「あなたのほうでその人に求めたことでしょう。」と書かれているように、カトリックの人々が、この方の霊を求める日が終末に訪れます。そして、その結果、「そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と書かれた事柄は成就します。生ける水なる、聖霊に触れる人々が起こされるのです。

明らかに聖書は、終末の日におきるカトリックの霊的復興、聖霊の傾注の日について述べています。

 

”11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

水を汲むのには、ひしゃくなり、ポットなり「水をくむ物」が必要です。彼女の言う通り、主イエスには今の時代、水を 「くむ者たち」がいません。これは、カナの婚姻の日に水を汲んだしもべに関連します。カナの婚姻の日に多くの人々が大量のすばらしいぶどう酒の恵みに与った陰には、「水を汲んだしもべ」がいたのです。この女の「(主のために)水をくむ者はいない」との指摘は確かに正しいのです。しかし、いつまでも正しいわけではなく、この時代、しもべ、水を汲むしもべは必ず、起こされてきます。

また、彼女の「この井戸は深いのです」との指摘もまさにその通りなのです。

水が土の深いところを流れているなら、その水を得るために深い井戸を掘らなければなりません。

深い井戸である以上、掘りにくい、労力がかかります。

今の多くの教会の問題、不信仰、霊的な病等は、みなこの井戸の水、聖霊の水が与えられる時、解決します。しかし、問題はこの井戸は深く、水に達する、聖霊の雨が降るには、困難があるということです。

しかし、終末の日、水を汲むしもべはこの井戸を掘り、終末の聖霊の大傾注をもたらすでしょう。

 

”12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 

ヤコブはイスラエル12部族全ての祖先です。そして、彼女は全てのヤコブに連なる人々はこの井戸から飲んだと言います。今に合わせて言えば、全ての教会に連なる人々はこの霊で満足し、生活してきたのだということです。そして、彼女は、「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。」と聞いています。言い換えれば、彼女は、「あなたはこのヤコブの井戸、全ての教会時代の聖徒達が受けてきたもの以上の水を供給できるのか」とイエスに問いただしているのでしょうか。

 

”13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 

イエスはこの水、霊に関して明確な回答をしています。彼女が言った、先祖代々飲んできたこの井戸の水に関して、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と答えられたのです。

ですから、たとえカトリック教会が始めの時から、受けてきた霊であってもその霊は真のかわきを癒すことはできないと語られたのです。

 

”14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

この水と主が言われた時、この女がその水をまだ受けていないことは明白です。この女、サマリヤの女は、生ける水を受けていないのです。このことは今のサマリヤのカトリックの教会にも当てはまることです。

彼らはこの生ける水を受けていません。だからこそ、彼らはヒンズー教、仏教にまで、渇きを満たすものを求めているのです。

 

しかし、主は明らかに「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われました。

 

”15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 

この箇所は非常に感動的な場面です。この女、5人の夫を過去に持ち、そして今、6人目の(真の)夫ではない男と暮らしている、何が正しいのか、罪なのかわかっていないようなサマリヤの女が、7人目の男、主イエスについに出会い、「この方こそ自分のかわきをいやして下さり、命の水をくれる方」だと理解し、ついにイエスに求めるようになるのです。

 

このことはかつて主イエスの時代に成就しました。サマリヤの女が主に水を求めるという事柄は、成就したのです。同じことが、終末の日にカトリック、現在のサマリヤの女に成就するでしょう。

この教会は長い間、真の夫たる方を忘れ、マリヤの霊だの法王の教えだのに仕えてきたのです。

しかし、終末のその日、7つの教会の最後の頃、彼女自ら、主にこの水、聖霊を求める日がくることでしょう。聖書は明らかにこの事柄について語ります。この日は感動的な日です。

 

”16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 

話が突然のように彼女の結婚生活について飛びます。「水を飲むことと結婚の内幕と何の関係があるのか」といぶかる人がいるかもしれませんが、これらは関係しています。

繰り返しますが、サマリヤは北イスラエルの首都であり、彼女は、第一義的には北イスラエルを予表していると言えるでしょう。北イスラエルの歴史を見ればわかることですが、この国は主なる神を捨て、神ならぬ者を神とし、バアル、アシラなどあらゆる偽りの神を夫としてきた国なのです。

しかし、あらゆる姦淫と混乱の歴史を経たサマリヤ、北イスラエルの国の女は多くの時代を経て、この時、主イエスと会うことを得ます。

 

同じように終末の日、サマリヤの女で予表されるカトリックの教会は、この方と会うことを得るでしょう。

それは7つの教会の終わり、世の終わりの時のことです。

 

”20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 

この山はサマリヤの山のことであり、今のカトリックの教会のたとえです。また、エルサレムはユダ国の首都であり、プロテスタントの予表です。

この女のことばは現代風に言えば、こういうことです。「私たち、カトリックはこの教会にこそ、本当の礼拝があると言っているのですが、あなた方プロテスタントは自分達の礼拝こそ、真の礼拝だと言っています。」

 

”21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 

カトリック、プロテスタントどっちが本当の礼拝をしているのか、今でも時々議論になる話題ですが、しかし、主のことばは我々には思いもかけないものでした。主は「この山でもなく、エルサレムでもない」すなわち、真の礼拝はカトリックでもプロテスタントでもない、そういう日がくると言われたのです。

 

今、多くのクリスチャンの目は、「私はカトリック」「私はプロテスタント」という区分に注目されているかもしれません。しかし、そのような区分ではない、「真の礼拝者」「そうでない礼拝者」という区分に神は目をとめられます。そして、その区分が起きてくる時代が終末に訪れます。

ヘブル書に記されている第二の幕屋、真の礼拝が開かれる時代がくるのです。

 

”22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 

救いはユタヤ人から来ると主は言われました。ですから、この真の礼拝は、プロテスタントから起きてくるのかもしれません。また、ここで主はこの女に「あなたがたは知らないで礼拝しています。」と語りました。今に即して言えば、カトリックの人々は(神を)知らないで礼拝していると言われるのです。

(神を)知らないと書けば、反発を覚える方もいるかもしれませんが、しかし、聖書がそう言うなら、耳を傾けることが大事だと思われます。

 

多くのカトリックの人々の信仰は、神を知らないでなされているものです。まず、そのことを知らなければなりません。

 

”23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 

しかし、このような神を知らない時代、礼拝を神が満足されているわけではなく、後に真の礼拝が起きてくる時が来ます。「今がその時です。」と書かれているように、イエスの時代こそその時代でした。そして、終末の時代にもこの真の礼拝は起きてきます。

 

ヘブル書の中で、主は「前の幕屋(第一の幕屋)が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。」(ヘブル人への手紙98)と言われました。すなわち、古いこの世的な礼拝を金科玉条のように守っている限り、まことの聖所への道、真の礼拝の道は開かれないと言われたのです。

ですから、終末の日に礼拝の方法が変化することが暗示されます。

何がどう変わるのか、よく今はわからないのですが、しかし、そのように語られていることは覚えて下さい。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」と主は言われました。

また、コリントの手紙の中で、(神ならぬ)悪霊への礼拝という事柄が書かれています。

ですから、礼拝における「霊」に注意することが大事だということがわかります。

 

この霊に気をつけるということをはっきり理解しているのが、悪魔礼拝者です。たとえば、キャサリン・クールマン、ベニー・ヒンなりの「働き人」をキリスト教会に送り込む時、彼らは何を目的としているのでしょうか。キャサリン・クールマンにしてもベニー・ヒンにしても説教の内容は、聖書的なように思えます。聖書的なのだから何も問題はないのではないでしょうか。

 

しかし、聖書の言うように「その霊に気をつける」ことが大事です。彼らの霊は神からの霊ではないので、多くの人はその霊に影響を受けてしまうのです。

 

しかし、これらの礼拝における悪霊の影響が排除され、神の真の霊により、礼拝する人々が起こされてくる時代があります。

 

この時、主は井戸、水と関連して「真の礼拝」について語りました。水は聖霊のたとえです。ですから、我々の受けている霊が、悪霊に影響されていない、真の神の霊かどうかということが「礼拝」において非常に大きな意味があることがわかります。

 

”24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

ここでもう一度、礼拝と関連して霊とまことに関して語られています。ですから、私たちが受ける霊とこの真の礼拝とが密接な関係があるということを理解しましょう。

 

”25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 

この女は、「キリストと呼ばれるメシヤ」と会うことに関する希望を持っていました。

彼女の結婚生活は、不道徳であり、また命の水も持っていませんでしたが、しかし、それでも彼女は「キリストと呼ばれるメシヤ」に会うことの希望を持っていたのです。そして、彼に会うとき、このメシヤが彼女の混沌とした信仰生活を建て直し、無知と暗闇の中を歩んでいるかのような生活を続ける彼女に「いっさいのことを知らせてくれる」ことを信じていたのです。

 

彼女の信仰、希望は正しいものです。たとい彼女の現状がどのようなものだとしても、彼女の信仰は良しとされるものです。そして神は彼女の信仰に答えて下さいました。同じように終末の日において、この方に望みを置き、希望を置き続けるカトリックの人々はこの方に会うでしょう。

 

”26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 

そしてこのサマリヤの彼女は他でもないそのメシヤなるキリストと会ったのです。このことは感動的です。

そして、もう一つのことを我々に教えます。それは、終末の日に必ずこのような日がカトリックの教会に訪れるということです。この教会の人々がそれこそ、7人目にして、始めて夫たるべき方と会う、その日が来るでしょう。

今、この教会の中で偽りに(くみ)せず、真に主を求めている人々はこの方に会うでしょう。

 

No.1『カトリックの概要について』

~カトリックとは何か?彼らは何をどのように間違えたのか?~

 

No.2『食い荒らされるカトリック』

~意図的な勢力により荒廃され、背教に追いやられるカトリック~

 

No.3『エキュメニカル、教会統一運動の罠』

~背教のカトリックと一致させることにより、プロテスタントの信仰を崩す試み、エキュメニカル~

 

No.4『大いなる裏切り』

~ルターの目指したプロテスタントの理想はカトリックとの一致により、崩されていく~

 

No.5『教皇制度会議で弾劾された真実の聖書信者』

~ローマ法王の推進によりカトリックの教理に引きずられていくプロテスタントのリーダーたち~

 

No.6『異端教理「キリストと共同の購い主マリヤ」』

~マリヤを含む四位一体は聖書的に誤った教理~

 

No.7『福音派とカトリック教会が共に(ECT)文書』

~エキュメニカル運動に関する文書~

 

No.8『ローマ・カトリック主義の真実』

~カトリック教会の実態について明かす“無益な礼拝、無益な伝統、および無益な繰り返し”について真実を語る~

 

No.9『カトリック・カリスマ運動の真実』

~異言を話すからといって、それは必ずしも神からの霊とは限らない!~

 

No.10『ローマ・カトリック教会は聖書的教会か?』

~カトリック教会は“聖書”の言葉よりも、教会が言っていることを優先するという罠に陥っている~

 

No.11『アナテマ(呪い)』

~カトリックの教理に対して、疑いを持ったり、否定したり、論争したりするときに罪人として呪いをかけられる~

 

No.12『教皇の不可謬性』

~「教皇の不可謬性」とは、「誤りうることは断じてない」と定義付けている“ローマ・カトリック教会は、信仰や道徳に関して間違えることは断じてない”と~

 

No.13『偽造文書と教皇の権力』

~時代が進むにつれて、教皇の権力が強まり、偽文書が教皇制度や教会の歴史認識を変えるほどの力を発揮~

 

No.14『聖餐式~その聖書的見解 ―化体説の誤り―』

~ローマ教会において、聖餐式はキリストの真の臨在という教理を最大限の重要事項と考える~

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