サマリヤの女

 

   カトリックへの警告!!

 

 

第1章 カトリックとプロテスタント 

 

 私たちが伝道活動している時、少なくとも1回は質問されることがあります。それは、「カトリックとプロテスタントは、どこがどのように違うのか?」ということです。一般社会の認識は、カトリックもプロテスタントも、同じであり、ケンカでもして分裂している程度の理解です。また、プロテスタント教会といっても多数の団体があり、よくわからないという声です。プロテスタント諸教会において、この多数の教団教派についてどう理解し受け止めるかは、一様ではありません。 

 

 しかし一般的にはカトリック教会についての認識が以外と稀薄なのです。

 カトリックと言えば、「ローマ法皇」「マリヤ問題」などの認識しかないのが現実です。神学校において、カトリック神学についてカリキュラム化しているということを聞いたことがありません。したがって牧師、伝道者自身もその明確な違いを把握しているとは言えないのが現状です。この違いについて牧師、伝道者が的確な説明ができないのですから、一信徒ができるはずがありません。この問題を明確にすることによって、1つの混乱から解放されることになります。このカトリック教会とプロテスタント教会を比較しながら簡単に説明していきたいと考えています。

 

 この問題を説明していくにあたって、誤解を避けるために私自身の神学的・信仰的立場を表明する必要があります。私の立場は、ウエスレアン・アルミニウス主義であり基本的にはホーリネス信仰です。

(聖書で固く禁じている「マリヤ崇拝」をするカトリック教会の祭司たち)

 

.カトリックとは何か

 

 私たちのカトリックに対するイメージは、ローマ法皇、マリヤ崇拝そして、きらびやかな会堂です。カトリックとは、ギリシャ語の「カタ・ホロス」の語源から来ています。そしてその意味は、「一般的」「全体的」「普遍的」ということです。また、一般的にはカトリックを「公同性」とも理解しています。この辺の理解はプロテスタントも同じなのです。しかし、カトリック側は、「真に歴史的あるはい伝統的なキリスト教はカトリック教会以外にはない」と主張します。

     (ローマ法王)

 

 

その理由として、宗教改革者マルチン・ルターは、カトリック教会の司祭であり修道士であった。したがってプロテスタント教会は、カトリック教会の線上の上に成り立っているから、と言うのです。たしかに、カトリックは母なる教会(マザー・チャーチ)です。その意味では、この指摘は正統性があります。

 

 しかしちょっと立ち止まって考えてみると、カトリック教会とローマ・カトリック教会は同じなのか?という問いが生まれてきます。一体、同じなのでしょうか?それとも、違うのでしょうか?この問題を整理しなければなりません。問題整理のために教会史に少々、しかも大ざっぱに触れてみます。

 

 ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会の共通点は、教会の誕生である、使徒行伝2章におけるペンテコステ(聖霊降臨)の出来事にその根拠を置きます。スタ-ト・ラインは同じということです。ペンテコステの出来事は、単に教会の誕生というだけではなく、教会形成(会堂の建設ではない)の始まりということも言えます。

 

 主イエスの弟子たちは、十字架上のイエスを見て逃げ出しました。そして、弟子たちは人々を恐れて隠れてしまったのです。そこに、復活の主イエスがそのお姿を現しました。そのとき、復活の主イエスは「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と言われました。その後、主イエスは40日間地上に留まり、自分が生きていることを数々の確かな証拠によって示しました。そして弟子たちの見ている前で栄光のお姿に変貌され昇天したのです。この出来事があってから、「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)のです。

(イエスの弟子となったペテロやアンデレに声をかけられるイエス)

 

(マグダラのマリヤに最初に現われた復活のキリスト)

 

 

こうして10日後、三位一体の神の第3位格である聖霊が降臨し教会が誕生したわけです。こうして、聖霊が著しい地位を得、神の主権によって教会形成が開始された、という意味において共通の理解に立っています。このようにして誕生した教会を、母なる教会と呼んだり、原始教会と理解します。また、初代教会とも呼びます。

 

この母なる教会、原始教会の母体は主イエスを裏切り、逃げてしまった弟子たちです。このようにだらしない弟子たちが、聖霊の充満を経験することによって力強く外に出て行って福音宣教を開始しました。この福音宣教を使徒的福音とも言います。弟子たちの福音宣教によって、教会は急成長していったのです。使徒の働き2:41には「そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが3千人ほどであった」あるいは、4:4には「その男の数が5千人ほどであった」と記述されています。ユダヤ人たちは、女、子どもは数に入れませんでしたので、実質は2倍、3倍の数が救われて、仲間に加わったことは言うまでもないことでしょう。こうして教会が成長していきました。

 

 そして彼らは使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをし、共にパンを裂き、祈りをするようになったのです。また互いに一切の物を共有し、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなに分け与えて支え合っていたのです。このように互いに仕え合い、神を賛美したのです。このようにして教会形成が、始まっていきました。

 

 これが原始キリスト教会であり、初代教会の姿です。このことについては両者共、一致する理解なのです。ですから同一なる線上の上に教会を理解しているということができます。

 

 このように成長を続けて行くプロセスの中で、当然ながらユダヤ人側からの多くの反対者が生じてきました。それは教会が律法の権威者、解釈者であり、祭司である彼らの立場を脅かしてしまう存在となるまでに成長してしまったからです。つまり宗教的指導者たちが自分の立場、権威の失墜を恐れるようになったのです。これらについては、政治的な課題として取り上げられるほどの問題になっていきました。それほど社会的影響が大きかったのです。そしてキリスト教会に対する迫害が起こりました。

 

 少なくとも、ペテロやヨハネは政治的組織であるサンヒドリン(衆議所)の前に2回呼び出され、福音を語ることを禁止されました。しかし、ペテロとヨハネはこの要求を拒否しました。こうして迫害は政治的レベルで進行していくようになります。そしてキリスト教会史上、最初の殉教者はステパノとなってしまったのです。(使徒6章-7章を参照)

      (ユダヤ人に石打にされるステパノ) 

 

 

反面、使徒たちは迫害をはねつけるかのように、諸外国に出ていって福音宣教を開始しました。その結果、諸教会が誕生することになったのです。特に、パウロは小アジア、ギリシャ諸国からローマに渡りスペインまでも伝道旅行し諸教会を生み出していったのです。福音宣教の進展によっては益々迫害が激しくなっていきました。有名な出来事としては、64年のネロ皇帝のときに起こったローマの大火災事件です。ネロ皇帝は、この責任をクリスチャンが放火したということにしたのです。このことによって、一般の人々はクリスチャンへの怒りを燃え立たせました。そして迫害が起こりました。しかし不思議なことに迫害下にあって、教会は益々成長していったのです。

(ドルイド僧の迫害からキリスト教伝道師をかくまう改宗したブリトン人の家族)

 

 

 

こうしてローマ帝国による教会への迫害は約250年間続きます。このような中で、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス帝が313年にミラノの寛容令を発令し迫害は終焉を迎えました。こうしてキリスト教会が国教となったのです。そしてローマ帝国が敵対視していたキリスト教会が帝国の保護の中に入ったのです。このようにカトリック教会は、ローマ・カトリック教会への道を進んでいったのです。その道の行き着いたところがローマ・カトリック教会なのです。

    (ローマ皇帝コンスタンティヌス帝)

 

 

現在のローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会における共通の母なる教会は「カトリック教会」ということが言えます。私はカトリック教会を、「古カトリック教会」と理解し、国教となったカトリック教会をローマ・カトリック教会と呼びます。ですからこの2つについては、明確な区別をしています。 

 

 この古カトリック教会は、実に使徒的教会です。この使徒的教会で語られた使徒的福音は、どのような内容を持っていたのでしょうか。ストット師は、ローザンヌ会議の講演において使徒たちの宣教に触れ、その中心的なメッセ-ジを5つの項目に分類しています。この内容を宇田進師が紹介していますので、要約します。 

 

 第1は、福音の事実です。まず、エルサレムにおいて否定することのできない救いのための出来事が起こったということです(ルカ1:1、24:14、18)。具体的にはナザレのイエスが十字架で死に、三日目によみがえったという歴史的事実です。パウロはコリント15:3-5において、この歴史的事実を私も受け、また復活のイエスが現れたと、はっきりと証言しています。使徒たちが伝えた福音は歴史的事実を伝えたということです。

 

 第2は、福音に対する証言です。パウロは福音の中心的な事実を述べるとき、「聖書の示すとおりに」(コリント15:3)「聖書に従って」(同4節)と、繰り返すことによって、彼の宣教は一貫して旧約聖書に基づいていることを強調しています。また初代の使徒たちは、メシヤ預言の成就と見ていました(使徒2:25以下)。もう一つの証言は、出来事を実際に目撃した者たちの証です(ルカ24:48、使徒5:32)。使徒たちは旧約預言の成就者イエスの歴史的事実の目撃の証言者として語ったということです。

 

 第3は、福音に関する確信に満ちた主張です。使徒たちは、聖霊によってイエスが主であり(コリント13:3、使徒10:36、ピリピ2:9-11)、救い主である(ローマ10:9)ことを大胆に天下に告白しました。使徒たちは、イエスは過去の存在ではなく今も生き、主権者としておられる現実であることを信じていたのです。

 

 第4は、福音の約束です。ペテロはイエスのもとに来る者は、たとえ誰であっても罪の赦しと聖霊による新しい生命が与えられると宣言したのです(使徒2:38)。まさに福音の中心的恵みは罪の赦しであることを語ったのです。また、内住する聖霊は、常に新しい生命を現在の恵みとして与えられるのです。

 

 第5は、使徒たちは、悔改め(使徒3:19、17:30)と、イエスを救い主と信じる信仰(使徒10:43)と、バプテスマ(使徒2:38)を強調したのです。

パウロは、この福音こそ「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力である」(ローマ1:16)と宣言しています。

 

 この使徒的福音こそ真に正統的な福音であることを明らかにしたのです。この使徒的福音を継承する線上こそが正統的教会であり、正統的信仰であるということなのです。しかしローマ・カトリック教会は、この使徒的福音を継承していると主張します。

 

 本当にローマ・カトリック教会が使徒的福音を継承しているということができるのでしょうか。ローマ皇帝コンスタンティヌス帝が313年にミラノの寛容令によってカトリック教会を国教と承認したところから、ローマ・カトリック教会と変貌していくのです。この時から宗教改革が起こる間に腐敗の歴史をたどっていきます。例えばカトリック教会は普遍的な教会である根拠を次のように主張します。それは教会は国家の主権に対して管轄権があると主張したのです。その結果当然ながら問題も起こりました。しかしこうして国家と教会が融合し教会が政治の世界に介入していくのです。そしてローマ・カトリック教会となるのです。オランダのカトリックの神学者J・ヴァン・ブラッセルは、「教会は、世界的国家と結合したのである」と指摘しています。この世界的国家というのは、ローマ帝国のことです。つまりカトリック教会と国家が結合しローマ・カトリック教会となったと認めている神学者が内部に存在するということです。

 (アウグスティヌス派修道院 "westgate-towers" )

 

 

ですからカトリック教会とローマ・カトリック教会は違うということです。そこで私は、カトリック教会とローマ・カトリック教会を使い分けます。母なる教会は(古)カトリック教会ですが、ローマ・カトリック教会は母なる教会ではありません。ローマ・カトリック教会は、ほとんど使徒的福音を継承していないのです。(この問題は、後で述べることにします)つまり現在のローマ・カトリック教会は、カトリック教会の線上にあるものなのです。

 

 

 

 

.プロテスタントとは何か 

 

 プロテスタントと言えば、宗教改革者マルチン・ルターという公式が浮かんできます。この宗教改革について、一般的にはやはり「宗教改革者」という称号で理解されています。実際はどうなのでしょうか。

 

 ルターは1483年、ドイツのアイスレーベンで生まれ、厳しい父親のもとで高い教育を受け成長していったのです。ルターはエルフルト大学で文学士、文学修士の学位を取得しました。特に1505年、文学士修得後、文学修士課程入学までの期間、この年の6月の末、ルターは休日をマンスフェルトにいる家族と一緒に過ごしました。そして7月2日にエルフルト大学文学修士課程入学のため帰途することになりその途中、シュトッテルンハイム付近で雷雨に襲われ、稲妻に衝撃を受けたのです。この恐怖の中で、「聖アンナよ。助けてくれ、私は修道僧になります」と死の恐怖から叫びました。この経験からルターは1505年7月17日、エルフルトの町のアウグスティヌス派修道院に入会します。

 

 ルターの修道生活が評価されたのでしょう。修道院生活が始まり、2年後の1507年には、そこで司祭として叙階され地位が与えられ、安定した生活が始まったのです。そして彼はミサを司るようになりました。彼はカトリック教会内ではエリートであったと言うことができます。

 

 彼は、1510年から1511年の冬の間、アウグスティヌス派修道院の公務でローマに派遣されました。そこで彼が見たものは、ローマ教会の腐敗と贅沢の実体でした。この体験が宗教改革ではなくローマ・カトリック教会の改革の必要性を考えるようになったのです。

 

 なにせルターはカトリック教会に忠実で、しかもまじめな修道僧でした。彼はその中で、「どうしたら神様に喜ばれ、義と聖を自分のものにできるか」ということを真剣に悩んでいたのです。自分が義と聖を経験するルターは、禁欲生活をし、修行も怠りませんでした。また思索をし、読書にも熱心に取り組みました。この修道院における彼の生活はきわめて厳しいもので、ルターの告白によれば「祈祷、断食、徹夜、耐寒」などによって、拷問の苦しみを受けたというのです。このような生活を耐えたルターは自分自身について次のように評価しています。彼は、「私は真に敬虔な修道僧であったし、厳格に僧団の規律を守った。だからもし、修道僧が修道によって天国に入れることができるものなら私は入れたと思う。そのことは私の知っている修道僧たちすべてが証言してくれるだろう」と・・・。実にまじめで、しかも模範的な修道僧として生活していたことがわかります。しかし彼はついに根をあげてしまいました。救いを勝ち取ることができなかったのです。

 

 その後、ルターはあの有名な「塔の経験」というキリスト経験に至ります。それは律法を守り修行をすることによって救われるのではなく、「信仰によって義とされる」という回心と確信にいたるのです。ルターはこの時の経験について、「わたしは全く新しく生まれ、開かれた扉からパラダイスに入ったことを感じた」と証しています。

 

 この塔の経験の時期については、1512年以降であろうと言われ、学者によって見解が分かれます。なぜならルターが神学博士の学位を授与されたのは1512年10月19日だからです。ルターはこのとき、「われわれは光を再び獲得した。しかし私が博士になったとき、私はそれを知らなかった」と語っているからです。これは塔の経験以前のことを指して言っています。その後、ルターは1517年10月31日、ヴェッテンベルグ城会の扉に「九十五箇条宣言文」を張り、ローマ・カトリック教会に抗議をしたのです。この宗教改革の後、ルターは宗教改革三大論文と呼ばれる文章を1520年に発表します。その論文とは以下のものです。

 

ドイツ貴族にあてる書・・・真の権威は聖書であることを述べています。

 

教会のバビロン補囚について・・・万人祭司の原則を述べています。

 

キリスト者の自由・・・信仰によってのみ義とされることを述べています。

 

 この3つの論文は宗教改革、厳密に言うならばローマ・カトリック教会改革の骨子なのです。またルターにとって改革の根拠となるべき内容でもあったのです。しかしこの論文によってローマ・カトリック教会から追放される結果となりました。決してルターはローマ・カトリック教会に対してプロテスト(反抗)したのではなく、本来のカトリック教会に戻そうとしただけだったのです。実際、彼は追放されるまで、ローマ・カトリック教会に留まり続けました。

 

 しかし、この宗教改革に賛同した人文主義学者のメランヒトンたちが、この運動を拡大していきました。また、ローマ・カトリック教会に不満をもっていた人々が極端な方向へ改革運動を進めていきました。特にカールシュタットという人物を中心とする急進主義者による宗教改革運動。宗教改革の名を借りた騎士戦争(1522-1523年)と言われる南ドイツの貧乏騎士たちの反乱。一種の政治運動であった騎士戦争が鎮圧されると、農民たちが武器を持って立ち上がる農民戦争(1523-1525年)が起こったのです。しかし、この戦争もやがて鎮圧されました。

 

     (人文主義学者メランヒトン)

 

 

こうして時代が進むにつれてローマ・カトリック教会に対する不満から起こったグループとそうでないグループが明確にされていきました。不満から起こったグループは、急進主義者たち、騎士たち、農民たち、ヒュ-マニストたち、アナ・バプテストの敬虔主義者たちです。この人々は、この運動から去っていきました。彼らは動機が不純で不平不満からそれぞれの運動を起こしたのですから、当然の結果です。

 

 もう1つのグループがあります。宗教改革から第一回シュパイエル国会(1526年)までは、この混乱の中にも順調な部分がありました。この国会の中で、信仰の自由を容認した決議を採択したのです。こうして特に、ドイツの北部においてはルター主義を受け入れる諸侯の人々がほとんどでした。しかし、第二回シュパイエル国会(1529年)において、信仰の自由は取り消されることになってしまいました。この決議に対して、ルター主義を受け入れた諸侯の人々によって抗議文を発表しました。この抗議する姿に感動したドイツの民衆が、ルター主義を受け入れた人々のことをプロテスタントと呼ぶようになったのです。

 

 このように宗教改革の火種はローマ・カトリック教会にありました。この火種に火をつけたのは、マルチン・ルターです。本来この火を大きくしたのは、ルターの周辺の人々であったということができます。しかしルターの宗教改革を一言で表現するならば、「罪をどのように取り扱うか、という救いのあり方の問題」ということになります。

 

 さて、カトリック教会とローマ・カトリック教会とプロテスタント教会を線で表して見ると次のようになります。見てわかるように、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の歴史観が基本的に違うということになります。

      (マルチン・ルター)

 

 

図1(今まで説明してきた内容)

 

ローマ・カトリック教会   宗教改革

1517年   プロテスタント

  313年   (古)カトリック教会(初代教会・原始教会・使徒的教会)

 

図2(ローマ・カトリック教会の内容)

 

プロテスタント 1517年

(古)カトリック教会=ローマ・カトリック教会

マルチン・ルターに対する評価

 

 宗教改革について、プロテスタントの立場に立って述べてきました。しかし、この宗教改革について、特にマルチン・ルターに対してローマ・カトリック教会はどのような評価をしているかを理解するかは対話に大きな助けとなります。というのは、この宗教改革が正統なものであるか、ないかという一つの基準となるからです。本当は別の章で述べるべき内容ですが、専門的になりすぎてもいけないので簡単に紹介します。

 

 一般的には、ルターの宗教改革は当時のローマ・カトリック教会が堕落、腐敗していたことから始まったと理解されています。しかし、これらの一連の事件と歴史的事実は、ルターの宗教改革の決起の時を与えたに過ぎないと言います。そしてルターの性格については、ローマ・カトリック教会側は次のように説明をしていますので要約します。

 

 ルターは現実的であると共に詩的な反面があり、強く、たくましく、衝動的で決断力に富んでいると同時に憂鬱であり、感情的であり、病的に鋭敏であった。激しい狂暴性があるかと思うと、親切な優しさ、犠牲の精神もあった。また、ルターにはこどもらしい虚栄心、強い高慢心の持ち主であった。彼には静かな落ち着きがなかった。彼の知恵は哲学的な純粋な理性の光ではなく、艱難を切り抜けたり、相手の短所を指摘したりすることに優れていた。このように分析しています。まるで、ルターは精神病であったかのごとく扱っています。

 

 ルターの修道院生活、特に心霊生活には生来の性格的な問題が2つあったとしています。その1つは、ルターが信仰に求めたものは感情的な慰籍であった。その2は、神の恩寵よりも、むしろ自力に頼りすぎたことであった。このように指摘します。そしてルター自身が経験した「塔の経験」については「感覚の夜」と言われる時期に起こったことであると説明します。この「感覚の夜」というのは、「浄めの道」とも言われます。被造物および慰籍への執着が強ければ強いほど、夜は暗く、苦悩は激しいとし、ルターはこの時期に入ったものであるとします。この時期に入った者は、ルターでなくても自力を過信するようになると理解しています。そしてルターの場合は、狂気のような大活動を始め、精神的に倒れ、神の恩寵に対して絶望し、誤ったあきらめをした。

 

 また、もう一つのルターに対する評価があります。ルターが宗教改革後、結婚に関する説教の中で、「禁欲生活に必要なものを私は持っていない」、「私は男子であることをやめない限り、妻なしには生きるということは、私にはできないことである」と語ったというのです。ですからルターは、「肉欲のために宗教改革と称して修道院を出たのである」と主張するのです。あくまで自分たちの非を認めません。

 

 そしてルターが教訓を想起し、おびただしい聖者らの模範に添って、祈祷と生得の道を勤しんでくれたならば、プロテスタント宗教改革の不祥事は起こらなかったとしています。

 

 ローマ・カトリック教会は、マルチン・ルターについて精神病か、性格異常者、あるいは信仰の逸脱した者であり失格者として理解しているということです。また、ルターの改革は、ルター派の設立のためであったかのごとく理解していることです。

 

 ですからローマ・カトリック教会から見れば、プロテスタント諸教会は正統性がないと理解することになります。そしてローマ・カトリック教会は、私たちがカトリック教会であると主張し正統性を言います。逆に、私のような立場のプロテスタント教会から見れば、ローマ・カトリック教会の正統性を承認するのは、きわめて難しくなります。

 

 このように教会史の中で、その違いを理解しようと試みても理解しえない点が多々あります。歴史は解釈です。教会史をどう解釈するかによって違いが生まれます。では、どうしたらよいのか。一人一人が、しっかりした歴史観を持つことです。

 

引用文献

 

.福音主義キリスト教とは何か  宇田進著 P55-57  いのちのことば社

 

.新カトリック教理  J・ヴァン・ブラッセル著(山崎寿賀訳)  P258  エンデレル書店