サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

第6章 教会と礼典 

 

 ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会では、教会についての理解が同じ点もありますが基本的な違いがあります。一般的なイメ一ジでは、ローマ・カトリック教会の会堂は華やかできらびやかです。それに対して、プロテスタントの教会は質素です。このギャップに驚きを持つ人々が少なくありません。このような驚きは、無理からぬことです。なぜなら、教会=会堂という理解が普通だからです。しかし、このような目に見える点は、基本的な相違点と言うことができません。聖書的に見て、基本的な違いがあります。そのことを考えていきましょう。

 

    (カトリック教会のきらびやかな会堂)

 

 

 

.教会の土台  

 

 教会の土台、基礎はなんでしょうか。これがなければ、教会と言うことが出来ない。これを欠いては、単なるクラブやサークルと同じレベルになってしまう。これらのことを整理することが大切です。また、ローマ・カトリック教会の教会についての理解と相違点を理解することは大きな意味があります。さて、「やさしい教理問答」を見てみましょう。 

 

第16課 教会  

 

Q.イエズス・キリストは神の福音をすべての国、すべての人に伝え、人々を神の民として1つに集めるために何をなさいましたか?  

A.イエズス・キリストは、神の福音をすべての国、すべての人に伝え、人々を神の民として1つに集めるために、教会をお建てになりました。  

   

.92 教会とは何ですか?  

.教会とはイエズス・キリストの教えを信じ、それにしたがっている信者の集まりです。  

なお、見える教会の他にも、神の恩恵によって教会に属している人々がたくさんあります。  

 

.93 イエズス・キリストは、どのようにして教会をお建てになりましたか?  

.イエズス・キリストは、(1)12使徒を選んで、ご自分の権能を授け、(2)聖ペテロをかれらの頭に定め、(3)彼らに聖霊を遣わして、教会をお建てになりました。(マタイ16:15-16、ヨハネ21:15-17)   

    

.聖ペテロの後継ぎは誰ですか?

.聖ペテロの後継ぎはローマの司教であって、これを「教皇」と言います。使徒たちの後継ぎとして、各地の教区を司るのは司教です。

 

 この教理問答からいくつかの点がわかります。教理問答を基本に考えてみましょう。ペンテコステにおいて、教会が誕生したという点についてはプロテスタント教会と一致しています。それは、「彼らに聖霊を遣わして教会をお建てになりました」という言葉によってわかります。しかし、問題は教会の土台や頭をペテロとしている点です。教理問答の中の一文である「聖ペテロを彼らの頭に定め」という言葉によって明らかです。そして、ペテロの後継者をローマの司教(教皇)としていることです。つまりペテロの後継者は、現在のローマ法王であるとしているのです。よく言われることですが、マタイ16:18の言葉を引用し根拠としています。

 

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

 

 この聖書の言葉をもって、教会の土台はペテロであるとします。教理問答から言えば、教会の頭もペテロということになります。そして、ペテロの後継者がローマ法王であるとするのです。なぜ、このようなことになってしまったかが問題です。教会の歴史を振り返ってみます。

 

 初代教会においは、監督は階級、権威、権能においても皆平等であったのです。ところが、時間とともに多数存在する監督のうちローマの監督が最も権威があると主張するようになっていったのです。その期間は、313年から590年の277年間に起きたことです。特に590年には、グレゴリウス監督が登場するとローマ監督の首位権を主張しはじめました。他の監督との力関係の調整から中央集権が生まれるようになったのです。このようにして、監督は正統的教義の保証と理解されるようになっていきました。

 

 この時期は、政治的には330年にコンスタンティヌスはローマ帝国の首都をコンスタンチノーブルに移したのです。こうして政治の中心は、ローマからコンスタンティヌスに移りました。このような政治的な不安的な時期に人々はローマの監督を現世的、精神的指導者と仰ぐに至ったのです。このような状況から民衆にとって、ローマの監督は唯一強力な人物となったのです。

 

 このような背景の中で、ローマ監督の地位を聖書に求めるようになりました。そこで、初代教会からの伝承と称しマタイ16:16-18を根拠にペテロ首位権を主張し民衆に承認されるに至ったのです。445年には、皇帝ヴァレンチニア三世は勅令を発布し精神上のローマ監督優位性を承認しました。その上で、ローマ監督つまりローマ法王が承認することは「すべての人に対する法律」としてしまったのです。こうしてローマ監督(法王)の地位が強固なものとなったのです。

 

 では、教会の聖書的根拠はどこにあるのでしょうか。もう一度、マタイ16:18を見てみましょう。

 

 主イエスがペテロに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」といっています。この言葉の聖句の前を読んで見ると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:15-16)

 

 この主イエスとペテロの問答の後に、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)といっています。この聖句の「この岩」についてパウロは次のように言います。

 

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかはそれぞれ注意しなければなりません。というのは、だれでも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(コリント3:10-11)

   

 

 パウロは、信仰告白について次のようにも言っています。

 

 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれでも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれでも、「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント12:3)

   

 ここに「イエスは主です」という信仰告白が記述されています。当時の社会においては、「ローマは主です」と告白しない者は死を意味していたのです。この告白は、命をかけた告白です。しかもこの告白は聖霊によるのです。ですから、「イエス・キリストご自身」と「イエスは主なり」という告白の上に教会の土台はあるのです。ですから教会の土台・基礎は、「イエスは主なり」という告白の上に教会が形成されるということです。また、パウロが言うように教会の頭はキリストです。決してローマ法王を中心とした教会ではありません。ましてローマ法王が教会の土台ではありません。

 

 

 

 

.礼典について

 

 

 礼典のことを、サクラメントという言い方をします。この礼典の理解についてもローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会では違います。ローマ・カトリック教会においては、礼典のことを「秘跡」という言い方をします。やさしい教理問答を参照してみます。

 

 

第37課

 

.213 イエズス・キリストは、神の超自然の恩恵を授けるために、何をお定めになりましたか?

 

.イエズス・キリストは、神の超自然の恩恵を授けるために、秘跡をお定めになりました。

 

 

.214 秘跡とはなんですか?

 

.秘跡とは、超自然の恩恵を与え、それをあらわすしるしです。

 

 

 ここで言われていることは、イエス・キリストによって定められて神の恵みを与えるしるし、ということです。なぜ、神はこのような礼典(秘跡)を与えたのかということについてグドルフは、「ルターは、人間は信仰のみによって救われると説き、また他の教えでは徳の道を示してもそれを実践するほどの力を与えない。カトリックは道徳の方面においても最も厳格な宗教と言われる。しかし、完全な道徳を守るほどの充分な恵みを与える。これも他の宗教には見られないことである。この神より恩恵を授けるおもな手段は秘跡である」と言います。つまりローマ・カトリック教会において、礼典は完全な道徳的生活をするための手段ということです。

 

 

 また神は、「人間は完全な道徳的な生活をすることが出来ない」と理解しているということなのです。したがって人類に秘跡を与えたと言うのです。人間は弱い者で、目に見えない神や目に見えない恵みでは満足できない。だから、魔術や迷信そして呪文などを求め霊的な力に頼るようになったと理解します。このような人間に、神は目に見える神の恵みの手段として秘跡を与えたと言うのです。

 

 

 たしかに礼典は神の恵みの手段の一つです。しかし、道徳的生活をするための恵みの手段ではありません。道徳的な側面を求めるならば「聖化」(ローマ書6章から8章)の経験なしに無理な事柄です。御霊の実の始めは「愛」です。聖書が言う道徳的な生き方は、愛によって全うされるのです。ですからルターの言う「信仰によって」与えられる神の一方的な恵みなのです。ローマ・カトリック教会は、礼典(秘跡)そのものについてどのような理解を持っているのでしょうか。彼らは礼典(秘跡)を罪の良薬とした理解に立っています。それは、次のような事柄です。

 

 

 秘跡は、肉体の欲望を抑える充分な力を持っています。また、人間はどんなに罪を悔やみ謝罪しても、実際のところ罪が赦されたという安心感がない。人間は目に見えないものによって安心を得ることができないからです。人間に安心を与えるために礼典(秘跡)を与えたと言います。この安心感を与えるために、洗礼と告悔が罪を赦す秘跡として存在するとします。この告悔の時、司祭は信者等に秘跡を授け「あなたの罪を赦す」と唱えるのです。また、洗礼の時は、「あなたを洗う」と宣言するのです。人間は、このような言葉を聴いて安心・平安を得ると言います。たしかに、「あなたの罪は赦された」と宣言してもらうことはホットするものです。しかし、人間の言葉によってなされる宣言は意味を持ちません。持ったとしても、一時的なものでしかないでしょう。人間に本当の安心と平安を与える宣言は、聖書の言でなければなりません。聖書には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ1:9)とあります。また、罪を悔い改めた結果、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果であルターましいの救いを得ているからです」(ペテロ1:8-9)とペテロは言います。本当の平安と安心は、私の罪のために身代わりに十字架についた主イエスを信じること。そして、罪を悔い改めることによって救いを経験するのです。罪の赦しの宣言は、聖書の言によるのです。そして、目に見えるものによって平安や安心を得るのではなく真実な悔い改めによる結果なのです。

 

 

 具体的に、ローマ・カトリック教会は礼典(秘跡)について大きく3つに分類しています。3つの分類について見てみましょう。

 

 

.キリストによる制定

 

 

 礼典(秘跡)はキリストによって制定された、恵みのしるしであるとします。そして、キリストが定めた礼典(秘跡)は7つあると説明します。それは、洗礼 堅信 聖体 告解 終油(病者の塗油)叙階 婚姻の7つです。この7つを2つのグループに分けています。第1のグル-プは、洗礼、堅信、聖体です。この3つは、聖書に記述されていると説明します。第2のグル-プは、告解、終油、叙階、婚姻です。この4つは、伝承によると説明します。やさしい教理問答には次のように説明されています。

 

 

.215 秘跡はいくつありますか?

 

.秘跡には、洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の7つあります。

 

 

 プロテスタント諸教会においては、礼典について7つも承認していません。洗礼と聖餐の2つです。この聖餐は、ローマ・カトリック教会の聖体にあたります。イエス・キリストは、礼典として洗礼と聖餐の2つを制定したのであって他は制定していません。マタイによる福音書28章19節において、洗礼を制定しておられることがわかります。また、聖餐についてはルカによる福音書22章17節-20において制定しています。このことについて、パウロはコリント11章23節-25節においてイエスの制定であることを証言しています。したがって、それ以外に根拠を求めることは非聖書的ということになります。ましてや不正確な伝承に根拠を求めることは正統性を欠くことになります。

 

 

.外面的なしるし

 

 

 彼らは、聖霊によるうながしだけでは恵みは不十分だとします。特に礼典(秘跡)は、外面的なしるしを伴うものと理解します。この外面的なしるしには、3つの内容が伴うものとしています。その3つとは、事物、言葉、行為です。この3つについて説明しましょう。そうすることによって、相違点がより明確になるはずです。

 

 

事物・・・事物について2つのグループに分類しています。第1のグループは、洗礼に使用する水です。この水は、心を浄めることを意味して用います。第2のグループは、堅信、終油、叙階の儀式に使用する香油です。特にこの香油はオリーブ油と香を混ぜ合わせたもので、心を強める意味で用います。また、聖徳の麗しさを意味するのです。

 

 

言葉・・・この言葉は、洗礼と告解と堅信の時の宣言ということです。司祭が洗礼を授ける時、「聖父、聖子、聖霊のみ名によってあなたを洗う」と宣言します。また、告解の時は「あなたの罪を赦す」と唱え、宣言します。そして、主の祈りを10回唱えなさいと言います。堅信の時は、「あんたは堅固にする」と宣言するのです。これは、外面的な秘跡による恵みを現していると主張します。行為・・・これは、按手のことです。イエスは、その生涯の中で按手をし、多くの人々を癒しました。このような行為自体も礼典(秘跡)であると言います。

 

 

.内面的な恵みの手段

 

 

 旧約聖書に記述されている割礼や過越の出来事は単なるしるしでした。しかし、新約聖書の世界に入ると単なるしるしであった出来事が、具体的な恵みの手段となったというのです。こうして実際的な内面的な恵みが与えられるようになったのです。

 

 

 このような秘跡は、初代教会から伝わったものと理解しています。しかも紀元200年代から100年にかけて様々な異説が言われましたが、秘跡を否定する者はいませんでした。初めて人類で否定したのが、プロテスタントであると主張します。プロテスタントは、霊肉の両面を持ったものが人間であるということを十分に理解できず、一方向に走ってしまったことが誤りであったと指摘します。このようなローマ・カトリック教会の見解に対して、異論を言わなければなりません。そのことによって、お互いの相違点がはっきりと見えて来るからです。なぜ、このようなことが生じたのでしょう?

 

 

《歴史的には・・・》

 

 

 第1章において、カトリック教会はローマ帝国の国教となりローマ・カトリック教会となった。そして、その結果として政治と宗教が結合し教会は世俗化していきました。こうして集団回心運動が起こり、教会の中に異教徒が入り込むようになったのです。教会の中に入り込んだ異教徒たちは、キリスト者のふりをしていました。当然なことですが、教会が堕落していきました。そして、教会の秩序を保つために世俗の力を借りるようになったのです。

 

 

 このような一連の出来事が、教会の礼拝にも大きな影響を与えるようになりました。ローマの監督たちは、教会内部にいる異教徒の人々に具体的な神をはっきりわかるように礼典に手を加えました。それが、天使、聖人、遺物、絵画、彫刻を崇拝するということに結び付いたのです。そして、このことによって異教徒たちがこれらに、よりどころを見い出すようにとおこなったことなのです。

 

 

 国家との結合は、もう一つの弊害をもたらしました。それは、民主的礼拝から貴族が好む礼拝に変化していったことです。そのために、聖職と世俗の区別が明確になっていきました。このような歴史的な経緯の中で、叙階が礼典の一つと承認されるようになっていったのです。また、400年頃には堅信と病者の塗油も価値あるものとされ、礼典に位置を占めるようになりました。6世紀末頃には、現在の7つの秘跡と言われる儀式が民衆に浸透し、礼拝の中で高い地位を持つに至ったのです。特に聖餐(聖体)については、司祭の手によって実質に変化するという教義が成立していたのです。このように歴史的に言っても、礼典を7つとすることはおかしな話なのです。

 

 

《神学的には・・・》

 

 

 基本的には主の制定(命令)に根拠があります。民衆の支持による根拠ではありません。しかも単なる儀式ではなく「信仰の公的表現」なのです。私たちが洗礼を受けるということは、「これから主イエス・キリストを私の人生の主として歩んで行きます」という信仰告白です。また、公同の教会(カトリック)への参与と交わりを意味します。この構造には、縦と横の関係があります。

 

 

横の交わり

 

 

 洗礼は、教会の聖徒の交わりへの参与ということです。単なる教会への入会式ではありません。聖餐は、聖徒の交わりの保持ということです。私たちが、礼拝の中で共に聖餐にあずかります。それは、キリスト者の交わりは聖餐を中心とした交わりだからです。

 

 

縦の交わり

 

 

 洗礼は、キリストと体なるキリストの教会との合体ということです。聖餐は、キリストと体なるキリストの教会との合体の命の維持ということです。

 

 

 私たちは、礼典に対する理解をしっかりしておかなければなりません。礼典の理解を軽視したり、軽々しく取り扱うことがあってはなりません。聖書は、書かれた神の言です。それに対して、礼典は書かざる神の言なのです。このことをしっかり理解しておかなければなりません。ですからローマ・カトリック教会の礼典に対する理解は、「恵みの手段の基本」であり極端な礼典主義ということです。このような礼典に対する理解は機械的・迷信的になりやすいという危険を持っています。恵みの手段の基本は、十字架経験以外にありません。やさしい教理問答を見てみましょう。恵みの手段であることが良くわかります。

 

 

.216 秘跡はどのような恩恵を与えますか?

 

.洗礼と告解の秘跡は、罪をゆるして成聖の恩恵を与え、他の秘跡は、成聖の恩恵のあるところへ、さらに恩恵を増します。そのうえ秘跡は、それぞれ固有の助力の恩恵をも与えます。  

 

 

 このような理解に対して、プロテスタントの礼典に対する理解は、御言葉に聞き従う恵みの手段ということでしょう。ですから礼典は、個人の信仰の公的告白ということです。それはどういうことか?私たちの信仰は、目に見えるようなものではありません。したがって信仰が観念的になってしまいます。そうではなく、目に見える信仰とキリストの実体が礼典であるということです。ですからプロテスタントの方がむしろ本来の礼典に立ち戻り、重んじているということができます。

 

 

 

.七つの礼典(秘跡) ―ローマ・カトリック教会―   

 

 ローマ・カトリック教会には、今まで述べてきたように7つの秘跡と称する礼典があります。この一つ一つを見ていきましょう。やさしい教理問答には次のように説明されています。  

   

.215 秘跡はいくつありますか?  

.秘跡には、洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の7つあります。この7つの意味と主張について簡単に説明することにします。  

 

(1)洗礼について  

   

.219 洗礼とは何ですか?  

.洗礼とは、人が神の子として、新たに生まれる秘跡です。  

 

.220 人が洗礼によって新たに生まれるとは、どういうことですか? 

.人が洗礼によって新たに生まれるとは、(1)原罪、自罪とその罰がまったく、ゆるされ、(2)超自然の命を受けて神の愛子となり、天国に入る権利を得、(3)キリストの神秘体である教会の一員となることです。  

 

221 洗礼は、イエズス・キリストのお定めにより、救いを得るのに必要です。 

 

 ここには、洗礼を受ける大前提である悔い改めが言及されていません。洗礼=救いという理解です。この理解は、日本的な例をとって見ると神道で言うところの「禊ぎ」と同等のレベルでの話です。禊ぎは、罪や汚れを水で荒い流すことによって浄めるということです。ですから罪の汚れを洗い流し浄めるのは洗礼であるというわけです。しかし、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたことについて次のように理解をします。この洗礼について、「これらの式は実際心を清める効果があるだけではなく、清めようとする精神のあらわれに過ぎず、単なるしるしに止まった。キリストの洗礼はそれと異なり、人間を全く改造する力をもっている。だから洗礼者ヨハネは次のように述べている。『私は、あなたたちの悔い改めのために、水で洗礼を授けるが、私の後においでになる方は私よりも力のある方で、私はその方の履物を持つ値打ちさえもない。かれは聖霊と火によって洗礼を授けられるであろう』(マタイ3:11)」と言います。この説明では、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマの混同です。また、この両者の関係が明確ではありません。この問題はさておいて、良く引用される洗礼に関する点に焦点をあててみましょう。 

 

 ヨハネによる福音書3章には、ニコデモとイエス・キリストの会話が記述されています。その中に、「人は水と御霊によってうまれなければ、神の国にはいることはできません」(ヨハネ3:5)とあります。この聖句をとって、洗礼によって罪が浄化され赦されると理解するのです。これは本来、悔い改めに伴うものでなければ単なる形式、儀式となってしまいます。使徒行伝8章に記述されているエチオピア人の宦官の洗礼についても同様です。単に洗礼を受けたのではなく、悔い改めに伴うものです。悔い改めのない洗礼は、意味をなさいということです。彼らは悔い改めはより洗礼の方を重視します。本来、この関係はコインの表裏一体であるべきです。 

 

. ローマ・カトリック教会が主張する洗礼によってもたらされる恵みについて、彼らは洗礼によってもたらされる恵みについて4つ挙げています。紹介しましょう。  

 

原罪の赦し・・・洗礼の瞬間に原罪までも完全に清められる  

 

自罪の赦し・・・これは、複数の罪のことである  

 

無限の罰の赦し・・・神の裁きから解放される 

 

有限の罪の赦し・・・練獄の苦しみを言っています。練獄の苦しみは刑罰としての苦しみではなく、天国に入る苦しみとしています。  

 

 本来、悔い改めに伴う洗礼は恵みとして、一切の罪は赦されています。また、たしかに神の裁きから解放されています。ところが練獄は認めることは出来ません。問題は原罪の取り扱いです。原罪の問題は、特にローマ書6章-8章の経験がなければ自覚的なものにはなりません。十字架理解の乏しさを暴露しているようなものです。 

 

.洗礼によってもたらされる新しい命について  

 

 新しい命について、7つ挙げています。簡単にご紹介しましょう。 

 

聖成も恩恵・・・洗礼の時に霊魂は聖化され、永遠の命への道が開かれ希望に満たされる新しい命。  

 

キリストとの一致・・・人種、民族、身分、性別等に関係なくキリストの血に生きる者となる。

 

聖霊の宮・・・パウロは、「あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(コリント3:16)と言っています。私たちは聖霊の宮、神殿となるということです。

 

超自然的徳・・・信・望・愛の倫理的徳の新しい能力が与えられる。そして、神の子としてふさわしく生きることができる。     

 

助力の恩恵・・・新しい命をもって生きるということは、神の助けが必要となる。これが、神の協力による力である助力である。

 

聖霊の賜物・・・神の子としてふさわしく生きるために神の協力が必要になる。これが、助力の力であった。この力をもって、自分の働きを聖霊の賜物に委ねる。その結果、人間らしさから離脱し神化したものとなる。

 

天国の世継ぎ・・・天国の世継ぎとなって永遠の幸福の権利を得る。

 

 以上がその7つの項目です。これらの事柄が、もっともらしく聞こえますが私たちと随分違うことがわかります。

 

 たしかに洗礼は、キリストと恵みによって一つとされ、聖霊の宮とされます。また、天の世継ぎとされた者です。しかし、超自然的徳とか助力の力などというものは功徳、善行説の理解であって聖書的な理解ではありません。「神の子としてふさわしく生きる」ということについてパウロは、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)と言っています。この所で、パウロは道徳的・倫理的な意味で言っているのではありません。この「良い行い」というのは、神の御心に生きるということにおける「良い行い」です。ですから神は、一人一人に良い行いを備えてくださっているのです。まして神の協力によっての歩みではなく、聖霊の助けによって、まったき献身と服従によって生きることこそ大切なのです。聖霊の賜物は、教会を建てあげるために神が私たちに与えた霊的能力です。決して、神の賜物に委ねるのではない。むしろ与えられた賜物を主の栄光のために活用することが大切です。恐ろしいことに、賜物に委ねることによって、人間が神化するということは絶対にありません。私たちが、再臨の主イエスにお会いしてから主と同じからだに栄化されるのです。

 

(2)堅信について

 

 堅信とは、洗礼を受けた者が完全な信者となるためのものです。洗礼を受けた者は、霊的な幼児です。ですから大人のカトリック信者となるために堅信が必要であると言います。第2バチカン公会議「公文書全集」、第一章 教会の秘義について11項「秘跡と共通司祭職の行使」の一文には、次のように説明されています。それは、「堅信の秘跡によって、いっそう完全に教会に結びつけられ、聖霊の特別な力で強められてキリストの真の証人として、ことばと行いをもって信仰を広めかつ擁護するよう、一層強く義務付けられる」となっています。

 

 この文書の中で、特に注目すべき言葉があります。その言葉は、「聖霊の特別な力で強められる」ということです。つまりここで言っているのは、聖霊に満たされるための行為ということです。別の表現を用いるならば「聖霊の充満」ということになります。イエスご自身が、堅信と聖霊の満たしの関係についてどこを根拠にしているかが問題です。しかし、ローマ・カトリック教会はペンテコステの出来事が、堅信と聖霊の満たしの関係であると理解しています。そして、以下の聖書を引用します。

 

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。(ルカ24:49) 

   

 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。それは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:37-38)

   

 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒行伝2:2-4)

   

 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。(使徒行伝8:14-18)

   

 これらの聖書の箇所を引用し、洗礼を受けた者を特別な式である按手礼によって聖霊に満たされることを堅信としているのです。この堅信の儀式の仕方は、次のようなものです。まず、堅信を授ける司教は堅信を受ける者の上に手を置きます。その時、聖霊とその賜物を祈り求めます。道具は聖香油です。この聖香油をもって額に十字架を記します。この時、「われ、父と子と聖霊とのみ名によりて、なんじに十字架をしるし、救霊の聖香油をもって汝を堅固にす」と宣言します。この宣言に続き、頬を軽く打ちながら「あなたに平安あれ」と唱えるのです。

 

 さて、この一つ一つの行為には意味があります。その意味を整理して紹介します。この行為を順番に見ていきます。

 

按手・・・天から神の恵みが与えられるようにするしるしです。それは、イエスが子どもたちに按手をもって祝福した事実。また、按手をもって多くの病人を癒した事実に基づいているとします。

 

司祭の祈り・・・この祈りは聖霊降臨を求める祈りです。ペンテコステを求めているのでしょう。

 

霊的戦いの準備としての聖香油・・・堅信を受ける者の額に十字架を記す時、香を混ぜたオリ一ブ油である聖香油を用います。これは司祭が聖木曜日に聖別したものです。これは象徴的な意味で用いているようです。それはスポーツ選手や戦争に出陣する兵士たちは体に油を塗りました。なぜなら油は皮膚を柔らかくし滑らかにするからです。このような効果を霊と信仰の世界に適応されたのです。聖香油を塗ることによって、聖霊に満たされるために心を柔らかくしキリストの兵士として出陣する準備をするのです。一言で、伝道の準備ということなのでしょう。

 

香油の色々な香りを混ぜる理由・・・速やかの聖霊に満たされキリストの香りを放ち人々の模範となることを意味しています。また、このことによって聖徳に進ませるとしています。

 

額に十字架を記す・・・この行為は他者に対する信仰告白と伝道を意味します。また、十字架を誇りとして生きるようにという意味も含んでいます。

 

頬を軽く打ちながら「あなたに平安あれ」と唱える理由・・・この行為は行為と言葉に分けられます。まず、「頬を軽く打つ」という行為はキリストにある苦しみ、恥を甘んじて受けますという意味を示します。「あなたに平安あれ」という宣言は、そこに真の平安を見いだすことができるようにという意味があります。

 

 堅信の時の儀式と行為そして、意味について理解できたでしょうか。洗礼と堅信とペンテコステの関係がバラバラです。決して聖書的であるということができません。

 

 たしかに私たちが聖霊に満たされることは勝利あるクリスチャンと生きるためには必須条件です。また、聖霊に満たされるということは、伝道と奉仕の力です。

 

 しかし、これらの祝福は堅信によって与えられるものではありません。確かに、復活のイエスは「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。

 

 イエスの弟子たちは、聖霊に満たされるまで何をしていたのでしょか。ただ単に、じっと何もせずにいたのでしょうか。決して、そんなことはありません。ルカは、このように記述しています。

 

 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒行伝1:14) 

   

 この聖句の「みな心を合わせ、祈りに専念していた」が重要です。どんな祈りをしていたかということです。それは悔い改めの祈りです。自分たちが、どんなに不信仰であったかです。その後に、聖霊が彼らに下り満たされたのです。この聖霊の力によって、ペテロたちがキリストを証し伝道したのです。ですから決して堅信によってそうしたのでも、そうなったのでもありません。またローマ・カトリック教会は、キリスト者は堅信によってキリストの兵卒や使徒となると言います。そんなことはありません。主イエス・キリストが私の罪のために十字架について死んで下さったことを、信じ罪を悔い改めます。そして洗礼を受けます。その時から私たちはキリストの福音の兵士でありキリストの使徒です。ただ、聖霊の充満の経験なしに力ある兵卒や使徒となることはできません。

 

 

(3)聖体について

 

 

 私たちプロテスタント教会に属する者にとって、聖体という言葉は聞きなれなものです。この聖体は、プロテスタントでいう聖餐のことを指しています。ですから表現の違いと理解しておけばよいわけです。この問題については、両教会もイエスの制定であると認識しています。また、教会において重要な位置を占めていることも一致しています。ですから多くの説明は必要ないでしょう。しかし聖餐そのものの意味が違います。プロテスタント諸教会においても、聖餐の取り扱いや意味には相違点があります。ですからここでは、ローマ・カトリック教会の理解を説明する程度にしておきます。「やさしい教理問答」第42課を参照します。また平行して「カトリック要理」を参考します。

 

 

(や)Q.243 聖体拝領とは何ですか?

 

.聖体拝領とはイエズス・キリストと一致し、超自然の命を養うために、その御体と御血をいただくことです。

 

 

(カ)Q.106 聖体とは、どういう秘跡ですか?

 

.聖体とは、救いのいけにえであるイエズス・キリストの御からだと御血とがパンとぶどう酒の形態のもとに神にささげられて、信者の永遠の生命の糧となる秘跡です。

 

 

(や)Q.244 なぜ、聖体を拝領しなければなりませんか?

 

.聖体を拝領するわけは、イエズス・キリストが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」と仰せられたからです。

 

 

(や)Q.246 聖体拝領の効果は何ですか?

 

.聖体を拝領すれば、(1)成聖の恩恵を増してイエズス・キリストとの一致を強め、(2)助力の恩恵をうけて徳にすすみ、(3)小罪がゆるされて大罪をふせぐ力が与えられ、(4)終わりない天国の幸福をいただくことができます。

 

 

(カ)108 聖体におけるキリストの現在

 

 キリストの制定のことばにしたがって、パンとぶどう酒はキリストの御からだと御血に変化します。

 

聖体には、イエズス・キリストの御からだと御血と共に、その霊魂も、神性も、共においでになります。

 

 

 なお、パンとぶどう酒のそれぞれどちらの形態のもとにもキリストは同様に現在しておられます。

 

 

 

 このようにロ一マ・カトリック教会において説明しています。特に注目すべき点は、パンとぶどう酒を食することによって罪が赦されるとすることです。もう一つは、パンとぶどう酒がキリストの血肉の実体に化ける(化体説)という理解です。じつに魔術的な理解としか言いようがありません。むしろ聖餐は救いの契約の更新であり、聖霊による臨在です。

 

      (パンとぶどう酒)

 

 

 

今まで述べてきたことを罪との関係で見てみると、罪の赦しの問題には何重もの構造が存在するということです。罪の赦しについての項目を挙げると次のようになります。悔い改め、聖人との交わり、功徳、聖体(聖餐)、練獄というように五重構造ということになります。これは大変大きな問題です。  

 

 さて、聖体(聖餐)に預かることをローマ・カトリック教会では聖体拝領と言います。一般的にミサと言われているローマ・カトリック教会の礼拝の姿です。また、この姿は初代教会の礼拝の形式であったわけです。初代教会は、全員パンと葡萄酒に預かっていたのです。しかし初代教会が成長する中で、葡萄酒をこぼしてしまう人々が増大するようになったのです。そこで、「かえって御血を汚すことになる」としローマ・カトリック教会は信徒が食することを禁じたのです。その後、第二回バチカン会議において一般信徒も場合によって食することが出来るようになったのです。 

 

 聖体(聖餐)に預かることによって、次のような効果が与えられるとします。やさしい信仰問答の「246聖体拝領の効果は何ですか。」を参照してください。特にこの中で問題となる点は「超自然的生命の成長」「助力の恩恵」という問題です。超自然的生命の成長とは、聖体(聖餐)よって次第に成長し、大人になるというのです。もし成長し、大人にならなかった場合、霊魂と信仰に問題があると言います。本当の霊的な成長、大人としての成長は認罪経験の深さに比例するものです。ですから聖霊によるお取り扱いを受けなければなりません。次に助力の恩恵とは、罪を犯しやすい弱い人間は聖体(聖餐)に預かることによって罪にうち勝つ力を与えられると言います。したがって、ふさわしく聖体に預かる者は大罪を犯すことはないとも言います。  

 

聖体拝領  小罪の赦し  霊魂の浄化 欲望の減少  恩恵の増加  

   

 このように、ふさわしく聖体(聖餐)に預かることは、罪の赦しと恩恵が増加するとしています。しかし、聖体(聖餐)そのものが恵みです。また、パンと葡萄酒に預かること事態が恵みなのです。決して恩恵の増加のために食しているのではないはずです。  

聖体(聖餐)にふさわしくあずかるということは、どういうことでしょうか?  

 

 このふさわしい姿になるためには、2つの姿があります。それは霊魂と肉身の準備ということです。霊魂の準備というのは、大罪がなく善意を持つということなのです。ですからローマ・カトリック教会においてミサに預かる前、告解室に入り司祭に向かって告解をするのです。これが一般的にイメージがされている懺悔と言われるものです。告解の問題は後で述べますが、この告解をすることによって神との関係を回復することを意味しています。 

 

 肉身の準備とは、神の恵みを受けるにふさわしい志を持つことです。 

 

 この場合の「ふさわしい志」というのは、イエスを喜ばすこと、自分の欠点を直して完徳に進むことの2つを意味しています。非常に道徳的倫理的です。また、功徳を要求しています。本来、神は私たちのありのままの姿を喜び受け入れてくださっているのです。

 

 イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」 (イザヤ43:1)

                               

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)

           

  このように、神はそのままの真実な姿を喜ばれているのです。決して、道徳的倫理的な姿や功徳を求めてはいません。

 

(4)告解について

 

 告解とは、洗礼後に犯した罪を赦す秘跡(サクラメント)のことです。やさしい教理問答を見ると、告解には(1)~(4)までの段階があるようです。まず第43課 告解(1)の章を参照に見てみましょう。

 

.252 告解とは何ですか? 

.告解とは、洗礼を受けたのちにおかした罪を、司祭を通してゆるす秘跡です。

 

.253 イエズス・キリストは、どのようにして告解の秘跡をお定めになりましたか?

.イエズス・キリストは、使徒たちに向かって、「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦す罪は・・・だれの罪でもそのままのこる」と仰せになって、使徒たちとそのあとつぎの司教、司祭に、罪をゆるす権利をお与えになりました。(ヨハネ20:21-23)

 

.254 告解の秘跡を受けるには、何が必要ですか?

.告解の秘跡を受けるには、罪の糾明、痛悔と決心、告白と償いを果たすことが必要です。

 

 このように洗礼を受けた後の生活の中で犯した罪を、司祭を通して赦していただく行為なのです。この秘跡を受ける条件が「罪の糾明」「痛悔と決心」「告白と償い」の3つがあるとしています。

 

 さて、この告解と言うのは、聖書的な用語ではありません。聖書を探ってみても、この言葉を見出すことはできないはずです。この言葉は、本来ドイツ語の《bejicht》に由来するものです。この言葉の意味は、大声で証人たちの前で、あることを肯定し、あるものに味方することを意味しているのです。これが、「告白する」となったのです。そのことによって、聖書のメッセ-ジを含むようになったのです。私たちは、何を告白するのか。それは、言うまでもなく罪です。それは、私たちは罪人であり、罪の奴隷であるということを認めることなのです。ところが、ローマ・カトリック教会は罪を「司祭を通して赦す」と言います。この行為は大きな誤りと言わざるを得ません。なぜなら、旧約的な理解でしかないからです。また、聖書は次のように言っています。

 

 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在するのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとって必要な方です。(ヘブル7:22-26参照)

 

 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」これらのことが赦されるところでは、罪のためにささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自身の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。(ヘブル10:17-20)

   

 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(ヘブル13:11-13)

   

 このように祭司を通して罪が赦されるのではなく、イエス・キリストを通して赦されるのです。これは、万人祭司をどう理解するかにかかってくる問題でもあるのです。ローマ・カトリック教会では、告解を受けるための条件がいくつか存在します。それは、「やさしい教理信仰問答254項」に次のように規定されています。

 

 (イエス・キリストを通して私たちの罪は赦される)

 

 

 

.罪の糾明

 

 

 この罪の糾明について、教理問答の255に次のように説明されています。

 

 

.255 罪の糾明とは何ですか?

 

.罪の糾明とは、前の告解の後に犯した罪を思い出すことです。

 

 

.256 糾明は、どのようにしますか?

 

.罪を糾明するには、まず聖霊の御助けを願い、神の十戒、教会のおきて、めいめいの務めなどについて、犯した罪を調べます。なお大罪があった場合は、その数や事情も調べます。

 

 

 この内容から理解できることは罪を思い出し、調査し、罪の数を数え事情まで調べるのです。グドルフは、「糾明とは自分の心に思ったこと、望んだこと、言葉、行いなどを調べながら、どのような罪を犯したかを思い出すことである」と説明しています。これらの罪をどのように調べるか、という調査方法についても教理問答の256項において説明しています。それは神の十戒、教会のおきて、めいめいの務めなどについて調べると言及しているのです。このことについてグドルフは、「神の十戒、教会の掟、七つの罪源に従って罪を調べるのは一般の方法である。七つの罪源とは傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、噴怒、怠慢である。・・・それよりも、もっとやさしい糾明の仕方がある。それは神に対し、他者に対し、自己に対し罪を犯さなかったかどうかを調べる方法である」と言っています。

 

 

 神に対してという場合、具体的にどのような罪を指摘しているのか?まず、朝夕の祈りを実施しているか否かです。そして、神にゆだねて一日を過ごしているかです。他人に対してという場合、人を傷つける言動がなかったかどうか。非人間的行為がなかったか。罪を伴う感情的なことは、なかったかなどです。自分に対してという場合、質素に忠実につつしみ深く毎日生きたかということです。

 

 

 ここまでが、告解の第1の段階です。この次が第2の段階に入るわけです。

 

 

.痛悔と決心

 

 

 やさしい教理問答 44課 告解(2)を参照して見ましょう。この項目の副題は「痛悔と決心」となっています。

 

 

 

.257 痛悔とは何ですか? 

 

.痛悔戸は、犯した罪を心から悔やみ、こののち決しておかすまいと決心することです。

 

 

.258 どういう理由で、痛悔をおこしますか?

 

.罪を犯して、全善の神にそむいたこと、天国の幸福を失い、地獄、あるいは練獄の苦しみを受けなければならないことなどの、超自然の理由で罪を痛悔します。

 

 

.259 完全な痛悔とは何ですか?

 

.完全な痛悔とは、神を深く愛する心から、その御心に背いたことを悲しみ、あるいはイエズス・キリストのご苦難、ご死去のもとになったことを悔やんで、罪を嫌うことです。

 

 

.260 不完全な痛悔とは何ですか?

 

.不完全な痛悔とは、罪の醜さを恥じたり、天国の幸福を失い、地獄あるいは練獄の苦しみを招くことを恐れたりして、罪を嫌うことです。

 

 

.261 完全な痛悔の効果は何ですか?

 

.完全な痛悔をおこせば、告解の秘跡を受けなくても、受ける望みさえあれば、すべての罪とその罰がゆるされ、成聖の恩恵を取り戻します。

 

 

264 罪のゆるしを受けるには、犯した罪を悔やみ、嫌うだけでは足りません。こののち、二度と犯すまいと、生活を改める決心を立てることが大切です。

 

 

 痛悔について、2つに分類していることがわかります。罪の糾明との関係で見てみると次のようになります。人間は、罪を神・他者・自分の関係の中で良く調べます。その後、罪は自分の中に明確になることによって後悔し、心を痛めるというわけです。このような理解にも問題があります。

 

 

 ローマ・カトリック教会において、罪の悔い改めなしに洗礼によって救いに預かるのです。この状態では、罪がわかるはずがありません。人間が罪を悔い、心痛めるということは聖霊の業です。聖霊によるキリスト経験をしていない者が悔いるということは不可能です。人間には、良心があると言われるかもしれません。しかし、この良心こそ、あてにならないものなのです。それは、人間は一つの嘘をつくとその嘘を正統化するため、また嘘をつくのです。そして、次第に良心が麻痺し、感じなくなり当然のこととなってしまうのです。ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。罪を教えるのは、調べあげてわかるのではなく聖霊によることなのです。

 

 

 さて、話を元に戻していきます。痛悔とは、悔し、心を痛め、恥を感じるということにおいて2通りに分類できるとしています。この2種類の痛悔とは、「自然の痛悔」と「超自然の痛悔」です。

 

 

自然の痛悔・・・やさしい教理問答257の内容がそれです。つまり罪を悔やむことなのです。

 

 

超自然の痛悔・・・やさしい教理問答258の内容がそれです。つまり神に対する不従順ということです。

 

 

 さらに完全な痛悔が規定されています。やさしい教理問答259がその内容です。完全な痛悔とは、神を愛する心から離れ御心に反する言動を悔やみ悲しむことなのです。また、イエスの十字架と死を悔やむことでもあるのです。この関係について図式してみると次のようになります。

 

 

 自然の痛悔  超自然の痛悔   完全な痛悔

 

(罪を悔やむ)  (不従順) (十字架と死を悔やむ)

 

 

 何かしっくりいきません。罪そのものは、神から離れているからです。不従順は、罪そのものでもあります。罪が本当にわかったら、イエスの十字架と死を悔やむのではなく感謝と恵みが起こって来るものです。この罪人の私の罪を赦すために、イエスが十字架で死んでくださったという歴史的事実がわかるのです。ですから何が完全であるか不完全であるか人間にはわからないはずです。ましてやさしい教理問答264には、罪の赦しを受けるには・・・とあります。その答えは、「二度と犯すまいと、生活を改める決心を立てることが大切です」と言っています。人間が罪を二度と犯すまいと、生活を改める決心をすることぐらいで罪から解放されるでしょうか。この程度であるならば、イエスは十字架に命を捨てる必要はなかったはずです。人間は、再臨の主をお会いするまで罪人であり罪人の頭です。

 

 

 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。(エレミヤ17:9)

 

                  

 

 このように、人間は所詮、罪人なのです。

 

 

 驚くことに、やさしい教理問答262には、「不完全な痛悔でも小罪のゆるしは与えられる」と明かされていることです。本来、罪に大罪も小罪も区別はありません。罪は罪です。しかし、十字架経験なしに痛悔で罪が赦されるということは、非聖書的であり十字架否定のなにものでもありません。ですから、ここにも十字架否定が起こっているわけです。 

 

 

.告白

 

 

 おおかたのプロテスタント諸教会では告白と言った場合、信仰告白を意味します。この信仰告白は単に、「イエス・キリストを信じて生涯お従いして行きます」というのではないはずです。それは、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ1:9)とあるように、罪の悔い改めをそこに含んでいるのです。ですから、「私はイエス・キリストの十字架の贖いを信じ、罪を認め悔い改めました。そして、罪が赦されたのです」という内容が伴うものです。

 

 

 しかしローマ・カトリック教会は違います。やさしい教理問答265には次のように説明されています。

 

 

.265 告白とは何ですか?

 

.告白とは、罪のゆるしを受けるために、司祭に罪を言い表すことです。

 

 

 このように説明されています。つまり自分が犯した罪を神の代理人である司祭に言い表すことなのです。ここで言われていることは、イエス・キリストに罪を言い表すことではなく、司祭に罪を言い表すことなのです。この理解は、じつに旧約的理解です。司祭に罪を言い表すのではなく、罪を告白する者のために取りなしの祈りをするということでなければなりません。司祭に罪を赦す権限はないからです。もちろん牧師にもそのような権限はありません。罪を赦す権限は、あくまでもイエス・キリスト以外にありません。

 

 

 教理問答によれば、罪のゆるしを受けるためにどのように罪を言い表したらよいのか?について説明しています。

 

 

.266 どのように告白しますか?

 

.前の告解のあとに犯した大罪について、その数と主な事情を正直に言い表します。

 

 

.267 小罪は告白する必要がありませんか?

 

.小罪は必ずしも告白する必要がありません。しかしそれを告白することは、一層心の安らぎを得ます。

 

 

.268 告白のとき、大罪を忘れたらどうしますか?

 

.忘れた大罪は、告白した罪と一緒にゆるされていますから、あとで思い出したら次の告解の時、これを言い表せば充分です。

 

 

 これらのことを、要約してみると次のようになるのでしょうか。罪には大罪と小罪があり、小罪は告白しなくてもよいがしたほうが好ましい。なぜなら、より一層の心の安らぎが得られるからです。基本的には、告解の告白は大罪でよい。しかし、その数と事情を正直に言い表すことが大切。忘れていた場合、次の告解の時にすれば良い。グドルフは、「告白は修養の手段として非常に有益である」と言います。すると本来の意味から外れてしまいます。また、罪を大小の2つに分類していることに問題があります。むしろ聖書は複数の罪は単数の罪から生じると言っているからです。

 

 

 さて、このような告解が実施された後、司祭は告解室の中で告解者に対して主の祈りや十戒を十回唱えなさいと指示します。それはなぜか?ということです。やさしい教理問答に戻ってみましょう。

 

 

.270 司祭が、告解で償いを命じるのは何のためですか? 

 

.司祭が、告解で償いを命じるのは、罪のかぎり、ある罰を、償わせるためです。

 

 

 

 このように罪の償いのために、「~を唱えなさい」と指示するわけです。こうなりますと、イエスの十字架の贖いの否定を言っているようなものです。しかもこれに留まらず、ここで(270)で言っている償いでは不十分であるとやさしい教理問答では指摘しています。

 

 

.271 告解で命じられる償いの他にも償いは必要ですか? 

 

.告解で命じられる償いは特別の効果がありますが、必ずしも足りるとは言えません。それゆえその他にも祈りをし、善業を行い、この世の苦しみや心配などを耐え忍んで、これを罪の償いとするように心がけることが必要です。

 

 

 つまり功徳をし、人生を忍耐し続けることによって償いが成立し罪が赦されるとする理解です。これもまた、十字架の否定です。もう何年の前のことです。ミッションという映画がありました。不確かな記憶ですから少々内容が違うかもしれません。この映画の主人公は奴隷商人です。この奴隷商人が自分の罪を司祭に言い表すのです。しかし人々は、彼を信用しません。しかし彼は伝道者になりたいと告げます。そして司祭たちは、彼が本当に後悔し罪赦されているかどうかを確認するために功徳を求めるのです。かつての奴隷商人は、大きな石を背負い坂の上を上るのです。そして坂の上から大きな石を転がします。下に転がった石を取りに下ります。そこで同じ大きな石を背に乗せ、坂の上に上るのです。同じことを何度も何度も繰り返します。しかも毎日です。このことを通して、自分の犯してしまった罪の大きさと重さを次第に実体験として理解し初めるのです。最後には、罪の重さに涙を流しながら同じことを繰り返しています。この姿を見ていた司祭たちは、彼の功徳を承認し宣教師として任命するのです。このような姿は、告解と同時にそこに伴う功徳の世界なわけです。

 

 

 このようにして罪の償いをするのですが、償いが免除されることもローマ・カトリック教会にはあります。このことを免償と言います。この免償とはなんでしょうか?やさしい教理問答を見てみましょう。

 

 

.272 免償とは何ですか?

 

.免償とは、告解の秘跡のほかに、すでにゆるされた罪の罰をゆるすことです。

 

免償には、全免償と部分免償があります。

 

 

 

 この説明では、よく理解できません。どういうことでしょうか。ローマ・カトリック教会では、告解の秘跡によって罪は全部赦されると理解しています。また一方では、永遠の罰も赦されるとも言います。しかし有限の罰はその限りではないのです。つまり罪は赦されるが、罰は残るということなのです。どのように考えたらよいのでしょうか。人間社会では罪を犯すと逮捕され、裁判を受けます。その裁判において罪は赦されます。しかし、その犯罪者に有限の罰を受けることになります。それが前科ということです。

 

 

 ですからローマ・カトリック教会では罪は赦されるが前科は残ると言っているわけです。有限の罰を別の方法で償うことが必要であるとします。その理由についてグドルフは、決してイエズス・キリストの償いが不十分であるからではない。信者はイエズス・キリストの御体の部分であるから、その御苦しみに参加するのである。「キリストの御苦しみの欠けたところを私の肉体で充たすのである」(コロサイの書簡1:24)すなわち信者の償いはキリストの御苦しみに合わせて始めて価値ある者となると言います。この理解は誤った聖書解釈です。

 

 

 キリストの御苦しみの欠けたところとは、「宣教の苦しみ」ということです。また、パウロは「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」(ローマ書13:8)と言っています。これは、愛の負債以外の負債は負うなといっているのです。私たちは、私たちの罪の贖いのためにイエス・キリストは十字架に命を捨ててくださったのです。この十字架の上に表された愛の負債を負っているのです。この負債を返していく生涯がキリスト者の生涯であって、御苦しみのに参与することではない。むしろ苦しみに参与するということは、宣教の苦しみということです。

 

 

 以上のように、罪の赦しには色々な通り道や抜け道があるということがわかります。

 

 

 

(5)病者の塗油

 

 

 病者の塗油とは終油という表現でいう場合もあります。病者の塗油という言葉は、プロテスタントに属するキリスト者にとって聞きなれない言葉です。また、初めて聞く人々が存在するに違いありません。病者の塗油(終油)とは、一言で表現するならば「臨終の時に霊魂と肉身を助ける秘跡(サクラメント)」ということです。また、教会憲章の11には、「『終油』はむしろ『病者の塗油』とも言うべきもので、危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではない。したがって、信者が病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が来ていることは確かである」となっています。やさしい教理問答には次のように説明されています。

 

 

.275 病者の塗油とは何ですか?

 

.病者の塗油とは、病気が重くなった信者を、助け強める秘跡です。

 

 

 このように説明されています。病人は、病床の中で孤独を感じ生きています。また臨終の時が迫ってくると、たとえ人々に囲まれていても死という恐怖と戦いながら全くの絶望と孤独の中にいるのです。このような人々にキリストの力によって心身を強める恵みを与える秘跡ということなのです。この理解について、ルカ10:30-37にある「良きサマリヤ人」を例に説明をします。

 

 

 それはエルサレムからエリコに下る途中、強盗に襲われたひとりの男がいます。この男は強盗に襲われ身ぐるみをはがされ、半殺しにされてしまったのです。この男を介抱したのがサマリヤ人です。サマリヤ人は近寄って傷にオリーブ油とブドウ酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せ宿屋に連れていったのです。このサマリヤ人の行為がこの秘跡に当たるというのです。

 

 

 しかし、この「良きサマリヤ人」のたとえは、そのようなことを言っているのではありません。「あなたの隣人は誰か」ということであり、このサマリヤ人はイエス・キリストを象徴的に教えているのです。人生で傷つき倒れかかっている人々をイエスは近づいて癒し、救ってくださるのです。そして私たちの隣人となってくださるのです。

 

       (良きサマリヤ人)

 

 

このような「病者の塗油」を誰が何を根拠に定めたのか、ということです。実際のところ、誰が何を根拠に定めたのか、ということについては明らかではありません。ただ、ヤコブ5:14-15を引用します。ここには、次のように書いています。 

 

 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ5:14~15) 

  

 この聖書箇所を根拠にしています。そして、ヤコブ書の著者であるヤコブはキリストの命令に従ったとします。また、教会の中で習慣として人々はしていたというのです。

 

 

 聖書の中を見ると、教会の中でオリーブ油をもって癒しの祈りをしたことは記述されています。そして、たしかに当時の教会においては習慣となっていたようです。しかしそれが、キリストの命令であったとは記述されていませんし文脈からいっても無理な解釈と言わざるを得ません。では、このヤコブ5:14-15をどのように解釈したらよいのでしょうか。

 

 

 長老たちの祈りの目的は、病人の死に対する準備ではなく病気が癒されるためです。ローマ・カトリック教会のラテン語訳聖書では「長老」を「司祭」と訳しています。また、ヤコブの目的はオリ-ブ油を塗ることではなく、主の御名によって祈ることです。オリーブ油を塗ること事態に何らかの神的な力があるのではなく一つの方法でしかないのです。復活のイエスが弟子たちに命じられたことは、「病人に手を置けば・・・癒されます」(マルコ16:18)ということであった。病気を癒す力はオリーブ油にあるのではなく、主の御名による聖霊の働きです。癒しも、信仰と祈りの結果であるということです。

 

 

 ですからヤコブは15節において「信仰による祈りは、病む人を回復させます」と言います。あくまでも癒しは、信仰による祈りの結果でしかないのです。ここで言う「病む人」というのはギリシャ語で「カムノーン」という言葉が使われています。この言葉は危篤状態の人を指しているのではなく、元々「弱っている人」ということです。したがって、「信仰による祈りは弱っている人を自分の足で歩けるように立たせる」ということになります。

 

 

 次の問題は、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」ということです。病気と罪の赦しの関係についてです。今の聖書箇所を単純に読むと、病気の原因は罪であるとも理解できます。しかし、病気=罪という公式は絶対的なものではありません。たしかにイエス・キリストが中風の人を癒されたことがマルコ2:9には記述されています。ここにおいては、病気の癒しは罪が原因であったので病気=罪の赦しということが言えます。しかしすべての病気の癒しが罪と関係しているとは聖書は言及していません。むしろ義人が苦しむという姿が聖書の中には記述されています。

 

 

 大切なことは、神に聞かれる祈りとは何かを知り、体験することです。マルコ14:36には「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」という神の前における謙遜な信仰の姿にあります。この信仰の姿勢に問われているのは、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21:22)という絶対的信頼です。

 

 

 ローマ・カトリック教会では、「終油のしるし」を次のようにおこないます。聖油を病人に用います。その際、聖油は病人の目、耳、口、手、足に十字架をしるしながら、「願わくはこの注油と主の善なるご慈悲によって、主はなんじが目をもって犯したる罪をゆるしたまわんことを」と祈ります。続いて、「耳をもって犯した罪をゆるしたまわんことを」と順に祈りながら唱えるのです。ここで、なぜ聖油を用いるのか。それは、油は栄養として体を強め、薬として苦痛を和らげ、傷を癒し、戦いに適応させる効力があると理解しているからです。このような理解の根拠はどこから来たのでしょうか。この根拠は決して聖書から来たものではありません。むしろ古代の風習から来たものです。それは、運動競技や戦場に出陣する兵士たちは油を塗ってなめらかにする習慣があった。このような風習を取り入れた結果であったということなのです。

 

 

 さて、問題は聖油の効果・効力についても言及しています。それぞれ簡単に述べてみましょう。

 

 

.強めること・・・人が臨終を迎えるとき、霊魂が体から次第に離れていく。この時、体の内蔵器官はその働きが低下していきます。この機能低下に伴って、苦痛を感じ訴えることがあります。それだけではなく、死の恐怖と不安のために悶え苦しむ。ある者は、生の執着のために悶え苦しむのです。これらの苦しみを和らげ、臨終の悶えを鎮めます。また、臨終の悶えに耐え忍ぶ力を与えると言うのです。

 

 

 このような意味で、「強める」というのです。このような理解は、聖書的な根拠はありません。むしろイエス・キリストは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言います。イエス・キリストは、「常に私と共に」いてくださるのです。この「います」というのは、ギリシャ語で「エイミ」です。これは、イエス・キリストの臨在はどこにいても常に存在するということです。ですからどこにでも、「常にイエス・キリストは私と共にいてくださる」ということこそが力、慰め、励ましです。死に対する恐怖と不安は、救われた魂ならば解決しているはずです。もし、そうでないとするならばあなた自身の救いをもう一度確認する必要があります。また、全き服従ができていたかどうか信仰の再吟味をする必要があります。まして死の決定は神の側にあるのです。 

 

 

 なぜ人は死ぬのか。パウロは「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に・・・それというのも全人類が罪を犯したからです」(ロ一マ5:12)と言っています。人間は、罪があるので死ぬのです。ヨハネは「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じないので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)とも言っています。つまり、死、そのものが、すでに神の裁きそのものの実体の一つであるということです。ですからイエス・キリストを救い主として信じなければ、本当の力、慰め、励ましはないということになります。

 

 

.癒すこと・・・癒しの前提があります。それは終油の秘跡によって罪を告白し清められる必要を言います。しかし臨終の時が近づいてくると話すことがとても困難になることが少なくない。その時でさえも、終油の秘跡によって罪が赦され、同時に傷も癒されるとします。しかし今まで述べてきたように、償うべき罪が残っている場合は、同時に赦されるのです。またある時には、病気が癒されることもあります。癒されなくても延命の力になることがあると理解します。この問題は前章で述べたので、ここではもう触れません。

 

 

.戦いに適応させる・・・何の戦いか。罪とサタンとの戦いを意味しています。それは臨終に近い時に罪が病床で赦されても、罪の傾向が残っています。その傾向に、サタンの誘惑は神さまから離そうとするというのです。罪なる人間は、サタンの誘惑と戦う体力や知力が低下してしまうので、それを高める効果を与えるというものなのです。

 

 

 この問題は、聖書がどうこうという以前の問題があるように思います。それは現実の死に直面しているような状況の中で、罪や誘惑ということを考えるでしょうか。ましてキリスト者はどのように過ごすでしょうか。それは私の創造者、救い主なるイエス・キリストのみもとに行く準備をするはずです。

 

 

 すでに、私たちは罪に勝利を取っているのです。イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのりです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われます。また、「わたしがこれらのことをあなたがたに話せたのは、あなたがたが、わたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)とも言われます。キリスト者は、罪と死に対する勝利者です。この恵みをイエス・キリストが与えて下さったのです。したがって病床において、なお、このお方にお会いする備えをする時となるはずです。

 

  

 

 このような終油の秘跡を受けるには条件があります。それは信者が重い病気にかかった場合です。この場合の「重い病気」というのは、死に直面している状態の人のことを言います。

 

 

 

 この条件は、結局「信者でなければならない」「死に直面している状態」という2つの条件を満たしうる者でなければならないのです。そうすると、聖油の効果についての内容は矛盾だらけと言わざるを得ません。その第1は、「生の執着のために悶え苦しむ」「死の恐怖と不安のために悶え苦しむ」ということです。重い病床の中にある時、このような状態が起こったとしたら、その人の救いを疑わざるを得ません。つまり救われていないということになります。救われたキリストは、一切を神様にお委ねし、平安の中で召されていきます。第2は、「終油の秘跡によって罪が赦され同時に傷も癒される」ということです。罪の赦しは十字架のイエスを信じ、罪を自分の言葉で告白しなければなりません。病気が治る、治らないは、神さまの御心のままになされることです。第3は、「サタンの誘惑と戦う体力や知力が低下してしまいそれを高める効果を与える」ということです。あえて効果を高めるというならば、御言葉による臨在ということです。決して、他の何ものによっても効果を高められるはずはありません。

 

 

(6)叙階

 

 

 トレント公会議、第23総会、第3章は叙階が真の秘跡あることを証明するためにテモテ1:6-7を引用しています。また第4章においては、叙階は消すことのできない霊印を刻みつけると教えています。

 

 

 さて、叙階とは何でしょうか。この言葉についても、プロテスタントに属する者にとって馴染みのないものです。やさしい教理問答 第48課「叙階」というところに目を留めてみましょう。

 

 

.279 叙階とは何ですか?

 

.叙階とは司祭職に着く権能を授け、これをふさわしくおこなう恩恵を与える秘跡です。

 

 

 この秘跡について、次のように説明されています。この言葉から叙階とは、一種の職務権限と理解できます。なぜなら、「司祭職に着く権能を授け」という言葉から理解できます。ということは、授ける者は誰かということです。授ける者がいなければ、「授け」という表現はでてきません。では、誰が授けるのか。教会憲章の中に次のような文章があります。少々長いのですが引用します。

 

 

 「したがって助力者である司祭や助祭と共に、共同体の奉仕する役務を受けた司教は、神の代理人として群の上に立ち、教理の師、聖なる祭儀の司祭、統治の役務者として、群の牧者である。使徒たちの頭であるペテロひとりに主から授けられ、その後継者に伝えられるべき任務が永続するのと同じように、教会を司牧するという使徒の任務も、司教の聖なる職位によっていつまでも行使されるべきものとして永続する。したがって聖なる教会会議は、司教が教会の牧者として、神の制定によって使徒の位置を継承した者であり、彼らに聞く人はキリストに聞き、彼らをさげすむ人はキリストと、キリストを派遣した方をさげすむ者であると教えている」

 

 

 「主の群を牧するために選ばれたこの牧者たちは、キリストの役務者であり、神の諸秘義の分配者であって(コリント4:1参照)、神の恩恵の福音の証明と(ローマ15:16、使徒行録20:24参照)、霊と義の栄光ある役職が彼らに委託されたのである(コリント3:8-9参照)。

 

 

 使徒たちはこのような崇高な任務を果たすために、彼らの上に下った聖霊の特別な注ぎかけによってキリストから豊かにされ(使徒行録1:8、2:4、ヨハネ20:22-23参照)、自分たちもその助力者たちに按手をもって霊的賜物を伝授した(テモテ4:14、テモテ1:6-7参照)。この賜物は、司教聖別において、われわれまで伝えられてきている。聖なる教会会議は、教会の典礼の慣習と聖なる教父たちのことばによって、最高の司祭職。聖なる役務の頂点と呼ばれている叙階の秘跡の充満が司教聖別によって授けられる、と教える」

 

 

 この文章から言えることは、ペテロの後継者であるローマ教皇から按手によって司教が誕生します。こうして司教群が形成され、その一人の司教が叙階の秘跡を他の者に按手をもって祭司職の権能を授けるのです。この祭司職の権能は教導職、司祭職、指導職の3つを示しているのです。やさしい教理問答の中に、次のように説明されています。

 

 

.280 叙階によって、司教、司祭、助祭はどんな権能を受けますか? 

 

.叙階の秘跡によって、司教は使徒のあとつぎとなり、すべての秘跡を行う権能と教会を治める権能とを受け、司祭は、司教の助けとして、ミサ聖祭をささげ、罪のゆるしその他の秘跡を授ける権能を受け、助祭は、司教を助ける権能を受けます。

 

 

 さて、叙階には7段階があり上の3級と下の4級があります。つまり7つの階位があるということです。項目を挙げていくと次のようになります。

 

 

 

下級4段  守門、祓魔師、読師、侍祭

 

上級3段  副助祭、助祭、司教

 

 

 これらの儀式を行う前に、剃髪式を行うのです。その意味は、髪を切るという行為を通して一切を神様に献げるという献身を意味しているのです。まさにローマ・カトリック教会において髪は献身のしるしなのです。それでは、それぞれの意味について説明していきましょう。

 

 

.守門・・・門衛を意味します。彼らは会堂のことを聖堂と言います。この聖堂の扉を開閉したり、鈴や釣鐘を鳴らす役目です。この根拠をどこに求めるのか。

 

 

 それは初代教会が迫害下の中にあった時、彼らは地下に逃げました。特にローマの教会に人々は地下に祭壇を築き礼拝をしました。この礼拝中、ローマの兵卒たちに見つからないように地下道の入り口を厳重に守る必要があったのです。これが起源なのです。その象徴として、扉の鍵と鈴を渡します。

 

 

.祓魔師・・・悪魔を追い払う務めのことです。使徒時代には、悪魔につかれた者たちが多くいました。したがって現在においても全然ないとは言えない。病気も時には悪魔が原因で起こることがあるのです。ですからこの務めが必要であると言います。

 

 

.読師・・・この務めは聖書朗読をする者を言います。

 

 

.侍祭・・・司祭のミサに奉仕する者のことを言います。

 

 以上が下級4段です。では、上級4段の内容はどのようなものでしょうか。

 

 

.司教・・・司教は祭司の上に位置付けられる大祭司なのです。大祭司は、叙階や堅信の秘跡を授ける資格が認められています。また、キリストからの権能をすべて委ねられている者であると理解しています。使徒時代には、この司教のことを長老と呼んでいたと解釈します。そして下級の4つの段階を全部授けられているのが司教という存在なのです。

 

 

.助祭・・・この務めはミサの際に司祭をサポ-トする職務です。また司祭を助けて説教をし、ミサを(プロテスタント教会でいう聖餐)取り扱うことが許されたものなのです。使徒行伝6章の中に登場してくるステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、ニコラオこの7名が助祭であったと理解します。

 

 

.副助祭・・・この制度と務めは助祭が不足している時に制定されたものなのです。この務めから、独身生活と共に聖務日祷を唱える義務を課せられるようになるのです。

 

 

│ ──┐

 

司 教

 

     助 祭

 

副助祭

 

侍 祭 ├──叙 階

 

読 師

 

 祓魔師

 

守 門 

 

──┘

 

 

 言うまでもなく、この7つの階級の中では司教職が一番重要であり重責です。その務めについては次のようにローマ・カトリック教会では考えているようです。司教は霊的側面として、カトリック信者を完徳に導き、信仰生活に進ませ、救霊にいたらしめる義務を持ちます。そのために、一日も怠らず毎日ミサ礼拝(聖祭)をおこない、聖務日祷を唱えるのです。当然ながら黙想、霊的な書物を読むことは日課です。また、全てを献げたしるしとして、童貞生活を過ごすことは常識となっています。

 

 

 理性的側面として、非常に高い学歴が要求されます。司祭となるために大学教育の中では、神学科の中に哲学を含めて6年と定めています。また、一般教養においても高い学識が要求さます。そればかりか語学においては数カ国語を身につけることは常識のこととされています。

 

 

 これらの規定について詳細に知りたい方は、第二バチカン公会議の「司祭の養成に関する教令」及び「教会における司教の司牧任務に関する教令」を参照して下さい。

 

 

(7)婚姻 

 

 婚姻を秘跡の一つとして、ローマ・カトリック教会は定めています。プロテスタント諸教会において、この点においても一致することはできません。やさしい教理問答「49課婚姻」の項には次のように説明されています。  

   

.283 婚姻の秘跡とは何ですか?  

.婚姻の秘跡とは信者が男女の一生の縁を結び、夫婦のつとめをよく果たせるように、神の助けを与える秘跡です。

 

 この根拠として、創世記2:18-25を述べています。言うまでもなく、この箇所はエバの創造とアダムとエバの結婚です。そして結婚の目的についても教理問答の中で説明しています。

 

.284 婚姻の目的は何ですか?

.婚姻の目的は(1)夫婦が互いに助け合い、完成し合うこと、(2)子を産み、育てることです。

 

 つまり人類の保存と繁栄ということです。婚姻の目的について、創世記1:28を参照すると「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地をしたがえよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ』と神の命令が記述されています。ですからプロテスタント教会の立場においても、この理解は同意することができます。また、異論はないはずです。

 

 さて、問題はこの婚姻は誰が定めたものかということです。創世記2章では、アダムの創造後アダムのあばら骨を一つ取り一人の女に造った様子が記述されています。その後に、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるべきである」(創世記2:24)と婚姻を神ご自身が制定しているのです。この制定は、神の創造の秩序としての婚姻に関する制定です。ローマ・カトリック教会が理解するようなサクラメントとしての制定ではありません。しかし誰がこの男女を夫婦として定めるのか、というこが大切なこととなります。やさしい教理問答には、次のように説明されています。

 

.285 婚姻の秘跡はどのようにして授けられますか?

 

.男女の信者は、主任司祭またはその代理者と二人の証人の前で、婚姻の誓いを立てることによって、互いにこの秘跡を授け合います。

 

 

 この説明から理解できることは、聖職者と証人の前で契約を結ぶことであるということです。このような理解の中に、不思議な点があることに気が付きます。それは、「神の前に」という理解が欠如しているということです。日本基督教団の式文(249ペ一ジ)を参照してみます。すると、結婚の宣言の言葉には次のようになっています。

 

 

宣言

 

(    )と(    )とは、神と会衆との前で夫婦となる約束をいたしました。ゆえにわたくしは、父と子と聖霊との御名において、この兄弟と姉妹とが夫婦であることを宣言いたします。

 

「神が合わせたもうものを、人は離してはならない」 ア一メン

 

 

 また、日本同盟基督教団 式文作成委員会が発行した式文も参照します。この式文の結婚宣言(130ペ一ジ)には次のようになっています。

 

 

宣 言

 

(    )兄弟と(    )姉妹とは、神と証人との前で、真心から夫婦としての誓約をいたしました。

 

ここに私は、父と子と聖霊の御名によって、この男女が夫婦であることを宣言いたします。

 

 

 「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19章6節)

 

 

 この2つの式文の前者は口語訳のものであり、後者は新改訳のものです。単にこの2つは、訳や表現が違う程度のことです。しかしローマ・カトリック教会の婚姻に対する理解と大きく違うことがあります。そこが問題なのです。それは、ローマ・カトリック教会は、婚姻を聖職者と証人の前で契約を結ぶことと理解しています。この理解は、神の代理人である聖職者ということからきているためなのでしょう。

 

 

 これに対してプロテスタント教会は、神と証人(会衆)の前で契約を結ぶことと理解しています。この場合の証人(会衆)という理解の中には、司式者も入ります。この辺の問題になりますと、教職論の問題になります。ここでは教職論が目的ではないのでこの問題は避けます。

 

 

 ただ一言だけ、この問題は万人祭司論をどう理解するかにかかってくる問題であることを申し上げておきます。

 

 

 このようにロ一マ・カトリック教会が主張するところの7つのサクラメントについて簡単に述べてみました。プロテスタント諸教会とローマ・カトリック教会は共通点がありますが、随分違いがあることが理解できたと思います。 

 

 

引用文献

 

 

.キリスト教入門《自修用》下巻  グドルフ著  P160  エンデルレ書店

 

 

.         同             P174  エンデルレ書店

 

 

.         同            P263  エンデルレ書店

 

 

.         同             P264  エンデルレ書店

 

 

.         同             P273  エンデルレ書店

 

 

.第2バチカン公会議 公文書全集 南山大学監修   P62  中央出版社

 

 

.         同              P63  中央出版社