サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

NO14. 聖餐式~その聖書的見解 (化体説の誤り) 

 

読者により翻訳いただきました。  

 

ジム・テットロー  

 

聖餐式はキリスト信仰の核心と言える  

 

 聖餐式は、ローマ・カトリック信仰における焦点とも言える。聖餐式は、ミサの中心である。聖餐式は、聖礼典の中の聖礼典である。論争の余地なく、ローマ教会は、聖餐式はキリストの真の臨在という教理を、最大限の重要事項と考える。この真理を認めないことにはローマ教会にしてみれば、重大なる冒涜と写る。カトリック教会の公式教理問答によれば、この点においてはまったく疑う余地のないものである。  

 

 聖餐式はクリスチャン生活における根源であり、頂点でもある。その他の聖礼典、そして真に使徒として教会に連なる牧師、働き人は聖餐式に行き着くのであり、そのように方向付けされている。[注:1] 

 

 日曜日における聖餐式は、あらゆるクリスチャンの歩みとしての土台であり、確信でもある。この理由により、キリストを信仰するかぎり、クリスチャンは聖餐式に参加することを余儀なくされるとする。[注:2]  

 

 聖餐式に反する罪を犯すとき、神聖を汚すこととなり、特に重大なる罪に定められる。と言うのは、この聖礼典において、キリストの真なる体が、実質として我々の前に臨在するからである。[注:3]  

 

カトリック教理  

 

 カトリック教会の教えによると、カトリックの神父が霊的交わりにおいて、ひとたびパンのウエハーを聖別するならば、そのウエハーは文字通り、真にキリストの体、血、霊を持つイエス・キリストの神性に変わるとされる。[注:4]  

 

 それゆえ霊的交わりの主は、もはや単なるパンではなく、パンの形をした主イエスであって、それゆえ崇敬と礼拝に値する。カトリックの教理問答はそう簡潔に述べている。  

 

 聖餐式という最も祝福された聖礼典において、われらが主イエス=キリストの霊と神性を持つ体と血は、それゆえ完全なるキリストが本当に、実体としてその中に存在するという。[注:5] 

 

 教会と世界には、聖餐礼拝が大いに必要とされている。主イエスは、この愛に満ち溢れた聖礼典において我々を待っている。崇敬の念をもって、大いなる信仰に期待しながら主に会いに行く時を拒絶してはならなし、世界の重大なる過失や罪に対し、悔い改めなければならない。我々は崇敬を失ってはならない。[注:6]  

 

 なぜならキリスト自身は、祭壇における聖礼典において臨在するので、崇敬の念をもって礼拝において、栄光を帰すべきだからだ。[注:7] 

 

では聖書は、何と教えるだろうか?  

 

 我々は、ローマ・カトリック教会が聖餐式に関して教えていることを述べてきた。しかし聖書はどのように教えているのだろうか。聖書は信ずるものに、神の世界におけるあらゆる助言[注:8]を学び、あらゆる事柄を吟味しなさいと教えている。そして良いものを守りなさいと(第一テサロニケ5:21)。すべて信ずるものは、「真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、神に自分をささげるように務めはげみなさい」(第二テモテ2:15)と。神の要求にしたがい、あらゆることを識別するために、我々は聖餐式に関して、聖書がどのように教えているかを結論付けている聖書そのものに求めるべきである。 

 

 最期の晩餐は、主イエスの言葉「私を記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)に従った1世紀のクリスチャンによって祝された。これを守ることは、主が象徴的に自分自身を贖いの子羊として捧げたとき、最期の晩餐において主が成されたからである。主の死という預言は翌日成就した。パウロだけが「聖餐式」[注:9]というフレーズを使う。まあ、黙示録19:9で、そのことは、それとなく言われているのだが、そこでは、主を信ずるものは、「子羊の婚宴を祝うであろう」とある。教会の神父はこの場面をおよそ紀元100年以降、パンとぶどう酒という概念を越え、祝うことから神の感謝を意味する聖餐式と呼び始めた。クリスチャンは聖餐式を、キリストの死と復活によって封印された新しい聖約のしるしとして、正確に祝ってきた。[注:10]今日では、聖餐式は単なる神への感謝以上のものを意味している。 

 

これは私の体である  

 

 それでは、最期の晩餐において、主イエスは何を正確に定めたのであろうか?聖餐式に関する出来事の聖書の記述をここで見てみたいと思う。最期の晩餐であるが「パンを取り感謝してこれをさき、弟子達に与えて言われた『これは、あなた方のために与える私の体である。私を記念する為、このように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である。』」(ルカ22:19,20)これは、本当に強烈な言葉であり、「聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しく、義に導くのに有益である」(第二テモテ3:16)とあるように、軽率に解釈すべきではない。 

 

 そして最期の晩餐において主イエスが、ご自分の体と血について、はっきりとわかるように示さなかったとしても、[注:11]主がヨハネの福音書の第6章の記録において、主の肉と血について話したであろう事は確かに疑いの余地はない。「『私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べるものは、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である。』そこでユダヤ人が互いに論じていった。『この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせる事が出来ようか。』イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなた方の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲むものには、永遠の命があり、私はその人を終わりの日によみがえらせるであろう。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物である。』」(ヨハネ6:51~55)  

 

 繰り返すが、主イエスは彼の肉は食べ物であり、彼の血は飲み物であると言っている。一緒にとりなさい、これらの節ではたしかに、主イエスは聖別された主として真に臨在していると断言しているように思える。しかし、結論を急ぐ前に、我々はあらゆる神からの助言を検討しなければならない。  

 

隠喩と直喩  

 

 聖書を通してわかることは、文の前後関係を吟味して、初めて意味が成されると言うことだ。聖書を信じるクリスチャンは、そこに書かれていることが、譬(象徴的な事象)の解釈を求めていないなら、聖書を文字通り解釈すると言うことを知っている。ヨハネの福音書6章と他のどこかの箇所における主イエスの言葉を探求する前に、聖書における2,3の譬(象徴主義)の例を見てみよう。あらゆる学者は、次節は譬であると認めている。それぞれの節に説明をつける。 

 

主の恵み深き事を味わい知れ(詩篇34:8)(神の約束が真実かどうか見出し経験するよう努めなさい)  

 

しかし私が与える水を飲むものは、いつまでも、かわくことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう(ヨハネ4:14)(救いの賜物を受けた者にとって、キリストの霊(聖霊)はその人の内に住むようになり、永遠の命を賜ったことを確信するのです) 

 

 

彼は私にいわれた「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」そこでわたしが口を開くと、彼は私にその巻物を食べさせた。(エゼキエル3:,2)(神の言葉を心に受け内面化しなさい、そして従いなさい)  

 

 主が、しばしば、読むものにイメージを植え付けるたち、隠喩とか象徴的な言葉を使うのは明白である。聖書において、神が私たちを翼の下に覆い隠すと語るとき、私たちは神が翼を持った鳥ではないということくらいはわかる。しかしながら、聖書がもし、文脈において象徴的意味合いを必要としないなら、いつでもそれは、文字通り解釈されるべきである。そういうわけで、ヨハネの福音書、他の福音書に書かれている事柄は、何を言わんとしているのだろうか? 

 

ヨハネ伝6章  

 

 ヨハネ伝6章全部を読むならば、文脈だけではなくて、主イエスが主の肉を食べ、血を飲まなければならないと語ったとき、主が言わんとすることは何なのかを捉えなければならない。ヨハネの福音書6章は、主イエスの5,000人の給食の記述で始まり、主イエスが水の上を歩く場面へと続く。22節になると、翌日になって、人々がよからぬ理由で主イエスを探し回り、その理由を我々は26節と27節の主イエスの言葉から理解することができる。「あなたがたが私を尋ねて来ているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物の為ではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」  

 

 これらの節は次節の文脈への布石となっており、そこでは明確に主イエスが、永遠なる命を探し求める必要性を強調している。主イエスは永遠の命を得るには、どうしたらよいかを説き続けており、28節では主イエスに「神の業を行う為に、私たちは何をしたらよいでしょうか?」とたずねたとき、主イエスは次(29節)のように答えている。「神が遣わされたものを信じる事が、神の業である」と。 

 

 ここで主イエスは、神を喜ばせる働きはたった一つである、すなわち、主イエスを信じることだとはっきりと述べている。主イエスは35節で「私が命のパンである。私に来るものは決して飢える事がなく、私を信じるものは決してかわくことがない。」と、このことをふたたび強調している。「私のところに来なさい、そして私を信じなさい。」と厳然と言っていることに気づくべきである。主イエスは、40節でだめ押しとばかりに、繰り返し述べている。「私の父の御心は、子を見て信じるものが、ことごとく永遠の命を得る事なのである。そして、私はその人々を終わりの日によみがえらせるであろう。」と。  

 

命のパン  

 

 主イエスは、主のみもとに来て、主を信頼することによって永遠の命を受ける・・・これ以上、はっきりとわかりやすくは示されなかった。この章においてこの時点で、ユダヤ人は主を批判した。なぜなら、主は次のように言ったからである「私は天から下ってきたパンである」と。(41節)主イエスは、42節から58節において、ユダヤ人のつぶやきに答えている。その節において、永遠の命を得るためには、主は本当に生けるパンであるから主の肉を食べ、血を飲まなければならないと言っている。ちょっと解釈しづらいが、主がこう言われたことを記憶しておこう。まず、主イエスは、自分自身を荒野の旅においてマナが天から降って来て父祖を養ったことと比較対照しておられるが、その父祖は今では死んでいる。しかし、主イエスが、ご自分を生けるパンとして提供するかぎり、もし食べるのであれば、我々は永遠の命へと至るとしている。主イエスは、かつて父祖たちが荒野で食べた、朽ちやすいマナではなく、朽ちることのない永遠なる命のパンであると言っている。主にあずかることによってのみ、主とともに永遠に生きることができるという希望が与えられるのである。 

 

 この比較対照によって、主がメッセージで言わんとしていることがわかってくるのであって、47節においては主イエスが「信じるものには永遠の命がある」と言ったと記録されている。主イエスは、私たちが主を信じた時点で、永遠の命を得ると言ったことに気づくべきだ。それは、我々が将来において、めざすものでも、獲得すべき希望でもなく、むしろ信じることによってすぐにでも受けることができるものなのである。  

 

 主イエスがこれらのことを言ったとき、主は、カペナウムのシナゴーグにいた。(59節)そしてパンもぶどう酒も持ってはいなかった。それゆえ、主イエスは、食人を求めたのか?それとも譬の意味合いで言ったのか?もし主イエスが文字通りに言ったのなら、「肉をその命である血のままで食べてはならない」(創世記9:4)とあるように父なる神と明らかに矛盾することになる。よって主イエスは「聖書の言は、すたれることがあり得ない」(ヨハネ10:35)と言っておられるので、譬の意味合い、比喩的表現で言っているに違いないであろう。そのことはまさに、次節における主ご自身の言葉をどのように説明するかと言うことである。  

 

肉は何の役にも立たない  

 

 60節のこの箇所のあと、我々は多くの弟子が「これはひどい言葉だ。だれが理解できようか」と言ったのを見る。主イエスは、弟子たちの不満に気づいており、それに答えて61~64節で述べている。「このことがあなたがたのつまづきになるのか。それではもし人の子が前にいたところに上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない。私たちがあなた方に話した言葉は霊であり、また命である。しかしあなたがたの中には信じないものがいる。」ちょっと待て。肉は何の役にも立たないとある。主イエスは、我々は主の肉を食べなければならないと言ったと思うが?だが、もし肉が何の役にも立たないなら、主イエスは、霊的な意味合いで言ったに違いないのだ。そして、そのことは、まさしく主が語った言葉にある「私があなた方に語る言葉は霊である」と。 

 

 主イエスは、前節で使ったように、flesh(肉)と同じ意味合いでギリシャ語の“sarx”を使う。それゆえ我々は、主の文字通りの肉を食べることは、何の役にも立たないと断定する。主イエス自身が、問答文を示しているからには、よくよく主に尋ねるべきであろう。主が語る言葉は霊であって、肉は何の役にも立たないと言っているのだから。このことがはっきりすれば、ペテロの言った言葉も理解できるであろう。主との問答において、何人かの弟子は去り、主イエスは12使徒に「あなたがたも去ろうとするのか」(67節)と言った場面であるが、ペテロの答えは心からのものであったろう。ペテロの主イエスへの答えは68節にある「主よ、私たちはだれのところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっているのはあなたです。私たちはあなたがキリストであり、生ける神の子である事を信じ、また知っています。」と。面白いではないか!ペテロは生きるために主の肉を食べなければならないということを信じるようになったとは言っていない。ペテロは、あなたさまがキリストであり、キリストとしてあなたさまを信じるようになったと言っている。  

 

 このことは永遠の命へと至る信仰告白であり、主イエスの肉を喰らい、血を飲むと言うことではない。それは聖書そのものが言わんとしていることでもある。  

 

ここに信仰に関する例をいくつか挙げてみる。 

 

自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)  

 

救われるために何をすべきでしょうか。主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます(使徒16:30,31)  

 

御子を信じるものは永遠の命を持つ(ヨハネ3:36) 

 

霊的意味  

 

 ヨハネの福音書6章において主イエスは明らかに、一時的な空腹を満たすマナの恩恵と、霊にある永遠の命の恩恵を比較対照している。このテーマは、神の世界を通して繰り返し語られる。聖書全体を通し制限され、一時的な肉の恩恵は無限で永遠なる霊的恩恵と比較対照される。食べるマナ、天から降って来たものでさえ、そのものの価値は限定的なのだ。しかしながら、我々の信頼と希望をキリストにゆだねることにより、キリストの命を授けられることは、無限なる価値があるのだ。ローマ書8章はこの真実を解説している。  

 

こういうわけで、肉によってではなく、霊によって歩むキリスト=イエスにある者は、罪に定められる事はない。なぜなら、肉に従うものは、肉の事を思い、霊に従うものは、霊の事を思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。肉にある者は、神を喜ばす事は出来ない。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。(ローマ8:,,,,9)  

 

 主イエスの七つの“I am”私がそれである。  

 

 ヨハネの福音書6章の主イエスの教えに付け加えて、ヨハネ伝全体を読むことにより、主のメッセージをよりよく知ることができ、主イエスが「私は命のパンである」と言ったとき、何を意味したのか十分理解できるようになる。ヨハネの福音書の中で、主イエスは七度、“I am”を使っている。これら七つを下記に列挙する。  

 

ヨハネ6:35 私が命のパンである  

ヨハネ8:12 私が世の光である  

ヨハネ10:9 私が門である  

ヨハネ10:11 私はよき羊飼いである  

ヨハネ11:25 私はよみがえりであり、命である  

ヨハネ14:6 私が道であり、真理であり、命である。  

ヨハネ15:5 私はぶどうの木である  

 

 信じるものは、これら七つの“I am”をよくよく噛みしめるべきだ。主イエスは神であると公言したばかりではなく、神は誰であるかを明らかにされた。出エジプト記を見てみよう、モーセは神ご自身に御名を尋ねている。[注:12]神はモーセにお答えになっておられる。“My name is I am”であると。神は唯一絶対なのである。ヘブル語におけるこの“I am”は、神の御名であり、「ヤハウエ」とか「エホバ」として私たちに示されているところの、YHWHである。  

 

 そしてヨハネの福音書において、主イエスは、誰が神であるかを示されている。あなたが霊的に飢え乾いているなら、主イエスは:私が命のパンであると言うであろう。あなたが灯りや答えを求めるなら、主イエスは、「私が世の光である」と答えるであろう。あなたが豊かなる命への入口を探すなら、主イエスは、「私が門である」と言うであろう。道しるべや護りが欲しいなら、主イエスは、「私はよき羊飼いである」と言うであろう。永遠の命を探しているなら、主イエスは、「私がよみがえりであり、命である」と言うはずだ。主イエスは、あなた以上に必要なものをご存知である。あなたが必要なものは何でも「私が道であり、真理であり、命である。私はぶどうの木である。私にとどまっておれば、あなたの必要な物は全て、与えよう」と、主イエスは言われる。 

 

 主イエスはヨハネの福音書6章とヨハネの福音書全体を通して言われる。私があなたがたの必要とする全てであると。私があなた方を創造し、そして私は、あなたがたの十分満足するほどの必要を知っており理解している。私がそれであると。主イエスが私たちの全てであるのだ。我々が必要を感じたものは何であろうと、主イエスただお一人のみが真なる必要を満たしてくださる。ヨハネの福音書全体を学ぶことにより、我々は、主イエスは明らかに自分自身を文字通りのぶどうの木や門同様、文字通りのパンとはしていないことがわかる。  

 

 むしろ我々の神であり、創造主として顕しており、主唯一人が、我々が必要とするところの全てであるとさえ断言している。神のおっしゃることを総括的に吟味して、初めて結論へと至るのである。  

 

ヨハネの福音書6章:最期の晩餐とは無関係であること  

 

 ヨハネによる福音書の6章を離れる前に、この章では直接最期の晩餐に触れてはいないし、聖餐式の教理を語ってもいないと言うことを我々は知らなくてはならない。繰り返して言うが、ヨハネの福音書6章は最期の晩餐とは、なんら関係ないと!そして化体論の支持者は、しばしば教理を擁護するため、これらの節を参照するが、この章のどこを見たって、主イエスが弟子たちに霊的交わりの祝福の方法を教え、最期の晩餐の記述がある箇所など見つからない。 

 

 ヨハネは13章の最初の部分で最期の晩餐に触れているが、6章の主題は、また別である。そういうわけで仮に主イエスが、我々にとって文字通り、永遠の命を得るのに、主の体の肉を食べる必要があるとしても、主は霊的交わりにおける食事に関してマニュアルを定めてはいないし、弟子に対し、パンを聖別して文字通り主の肉に変えるという聖職者の取るべき食事を設けよとは、間違っても言っていない。ましてや主はパンのもとで、主の体と血を礼拝せよということをここでは教えていないし、聖書のどこにも書いてない。福音書の記述は最期の晩餐での主イエスの言った事を記録しているので、それらの御言葉を検討してみようではないか。  

 

ヨハネ伝13章  

 

 ヨハネの福音書13章で、最期の晩餐の場面が登場する。2節と4節を読むと「食事が終わり・・・(主は)夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻いた。」とある。そういうわけで、ヨハネの記述を見るならば、このときまでに、最期の晩餐は終わっており、そのことから、主イエスがすでにパンを祝福しておりパンを裂いて、「これはあなた方のために与える、私の体である。」(ルカ22:19)と言い終えていることを意味するということがわかる。  

 

 ヨハネの最期の晩餐に関する記述で興味深いことは、パンを祝福して、「これは私の体である。」と言った後の場面であると言うこと、祝福され、聖別されたパンを只のパンとして言及していること(18節、26節)である。26節を見てみよう。「イエスは答えられた、『私が一切れの食物を浸して与えるものがそれである。』そして一切れのパンを浸してとりあげ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。」とある。主イエスは、自分のしていることがわからなくなったのだろうか?主は間違えてしゃべったのだろうか?いいや、違う、主イエスご自身の言葉によると、そのパンは祝福されたあとでも、パンのままである。 

 

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書 

 

 マタイ26:17~29、マルコ14:12~25、ルカ22:7~23節は、主イエスが十字架にかけられた前夜に起こった事柄が、似たような内容で書かれている。ルカ22:15~19節で主イエスは弟子たちに「私は苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなた方に言っておくが、神の国で過越しが成就する時までは、私は二度と、この過越しの食事をする事はない。そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って互いに分けて飲め。あなた方に言っておくが、今から後神の国が来るまでは、私はぶどうの実から造った物をいっさい飲まない。』またパンを取り、感謝してこれを裂き、弟子達に与えて言われた『これは、あなた方のために与える私の体である。私を記念する為、このように行いなさい。』と言われている。」 

 

 注目すべきは、主イエスが言わなかったことである。祝福されたパンは、文字通り体、血、霊、神性になったなどとは、主は一言も言っていない。繰り返そう。福音書どれ一つをとってもその件に関し、聖書全体のどこかにでも、主イエスが祝福されたパンは、主の文字通りの体、血、霊、神性になったなどと教えている箇所は見当たらない。主が言われたことは、「私を記念する為、このように行いなさい」である。そのまさに翌日、主イエスは十字架にかけられ、死なれ、葬られたことを知るようになる。それから主イエスは、復活され天に挙げられた。  

 

主イエスの唯一なる体は天にある  

 

 マルコ16:19節を見ると「主イエスは天にあげられ、神の右に座られた。」とある。主イエスは、そっくりそのまま、天の父なる神の右にあげられたのだ。 

 

 ペテロは次のように言っている「キリストは天に上って神の右に座し」(第一ペテロ3:22)そういうわけで、主イエスの唯一なる御体は天にあるのだ。主が「記念としてこのように行いなさい」と言ったことの意味が、分かろうというものだ。もし仮に、主イエスの体、血、霊、神性と言うものが、聖餐式において我々と共にあるならば、「私を記念する為、このように行いなさい」との言葉は意味をなさなくなる。記念礼拝なるものは、本人同席で行うというよりむしろ、去りし人のために行うべきものだろう。  

 

 もちろん、今現在、主イエスは神であり、「神は霊であるから礼拝をするものも、霊とまこととを持って礼拝すべきである。」(ヨハネ4:24)となる。主イエスは聖霊として私たちとともに居り、偏在である(いたるところに同時に存在できる)方で、あられる。そういうわけで、主は、私たちがどこにいようと、常にそばにいてくださるのだ。しかし、主の御体は天にある。「しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠の生贄をささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とする時まで待っておられる。彼は一つのささげ物によって、永遠に全うされたのである」(ヘブル10:12~14)。主イエスの御体は天にあると言うことは明らかであり、我々は、主が十字架上で我々のためになさったことを霊的交わりの祝福を通して覚えるべきである。  

 

原始教会の働き  

 

 原始教会は、しばしば霊的交わりを祝福し、弟子たちの働きは、使徒の働きに記録されている。使徒や弟子たちがいかにして、主イエスが昇天したあと、霊的交わりを祝福したかを見てみよう。それでは、使徒の働きを見てみようではないか。  

 

そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、ともにパンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:42)  

 

そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンを裂き、よろこびと、まごころとを持って、食事をともにし(使徒2:46)

 

彼(パウロ)は、こういって、パンを取り、みんなの前で神に感謝し、それを裂いて食べ始めた。そこで、みんなのものも元気づいて食事をした。(使徒27:35,36)

 

 使徒たちとは、最期の晩餐をともにした弟子たちであって、日々パンを裂き、霊的交わりを祝福したが、一度もそのパンを文字通り主イエスの体、血、霊、そして神性として扱ったことはなかった。主が昇天した日曜日においてさえ、只のパンとして霊的交わりを執り成した。使徒の働きでカギとなる節は次であろう「週の初めの日に、私たちがパンを裂く為に集まった時・・・」(使徒20:7)

 

 弟子たちは日曜日に、主イエスの死と復活の記念としてパンを裂いたということに気づくべきだ。たしかに使徒の働きをすべて見渡しても、弟子たちが霊的交わりの礼拝を単なる記念礼拝であるとした手がかりは見つからない。しかし、このことはその重要性を損なうものではないし、むしろ霊的交わりの祝福は、十字架の完全なる贖いと主イエスは今、我々の勝利、王として天におられるということを憶えるべきだと言う理由として強調されていると言えまいか。

 

神は手によって造られた宮にはお住みにならない

 

 使徒の働きで興味深いことは、弟子たちが繰り返し強調しているが、神は宮にはお住みにならないという記述である。「しかし、いと高きものは、手で造った家のうちにはお住みにならない。」(使徒7:48)

 

(パウロは言った)アテネの人たちよ、あなた方は、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、私は見ている。実は、私が道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知らない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、今知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。(使徒17:22~25)

 

 この真実は、ヘブル書にも見られる。「ところが、キリストは、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、いまや、私たちのために神のみまえに出てくださったのである。」(ヘブル::24)

 

 興味深いではないか。聖餐式の礼拝堂は、人手によって造られた「聖所」ではないか。しかも聖書によると、キリストはそこにいるのではなく、天にいると述べている。付け加えて、“temple”にあたるギリシャ語は“naos”であり、“shrine”、もしくは礼拝すべき所としても、訳される。神はそのような所にはお住みにならないと言われるが、カトリック教会においては、主イエスは世界のあらゆる礼拝堂におられると主張される。カトリック教会では、霊的交わりの主は、人手によってなされるとするが、聖書によると、神は人手によって仕えられるものではないとしている。(使徒17:25)聖書は明らかに、主イエスの御体は天にあり、霊的交わりは、十字架上の贖いが完了していることの記念として意味をなすと言っているのだ。

 

血を避けると言うこと

 

 さらに使徒たちは、信徒に血を避けなさいとも命じた。使徒の働きの中に、使徒と長老たちが共にやってきて原始教会に持ち込まれた、あるユダヤ人の慣習を熟慮した事を見る。ヤコブが発した彼らの決定は次の通りである。

 

そこで、私の意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れたものと、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと彼らに書き送る事にしたい。(使徒15:19,20)

 

 もしオリジナルメンバーの使徒と弟子たちが、繰り返し新しい信者に血を避けなさいと命じたのなら(使徒15:29,21:25)、なぜローマ・カトリック教会は従う者に対し、主イエスの体と血を食べよとすすめるのか?もし聖別された霊的交わりの主が、文字通り主イエスの体、血、霊、神性になったとするなら、血を避けよと命ずる聖霊に反してまで霊的交わりに参加することになりはしまいか。これはただちに矛盾となる。

 

Ⅰコリント11章

 

 何人かの聖餐式の支持者は、コリント人への第一の手紙の11章が化体を支持していると主張する。彼らは「主の体をわきまえないで飲み食いするものは、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」との29節を引用する。コリント11章を通読すれば、コリント人は霊的交わりと通常の食事の正しい区別をしていなかったことが明らかになる。主の体として認めないというのは、パンとぶどう酒をキリストの体と血の象徴であると認めないばかりか、まるで一般の祝宴であるかのように、不敬虔にもパンとぶどう酒をとったことを意味する。このことがコリント人への大きな非難となったのは明らかである。

 

 何の考えもなく飲み食いした者は、キリストの御体にあって、他のものより早く酔っ払っては自分勝手に食べたりしたのである。パウロは20節及び21節でこのことを問題であると指摘している。コリント書の11章において、パウロが化体を信じ、教えたと思われる箇所はないと言える。

 

 11章26節と28節において、果敢にもパウロは祝福した後でさえ、祝されたパンを只のパンとして言及している。パウロは26節で「だからあなた方は、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」と言っている。加えて、もし、主イエスが本当に身体的に、聖餐式におられるならば、なぜ、パウロは、主が来られるまで聖餐を祝うべきだと言ったのであろうか。このことは、聖餐がカルバリでの仕事を終えた記念であるとき、意味をなすのだ。そしてこのことは、主イエスが、「私を記念する為このように行いなさい」(ルカ22:19)と言われたとき、主ご自身が、定めたことなのである。主イエスは、世界中から罪を取り去る神の子羊なのである。もちろん主イエスは、世界中の人類の罪のために死なれたとき、文字通りの子羊になったのではなく、ましてやパンのウエハーが、霊的交わりの間、主イエスの文字通りの体、血、霊、神性に変わったとは言いがたい。

 

結論

 

 多分、このカトリックの教理においてもっとも混乱させるのは、キリストは何千というカトリックの神父により、日々、再び何度でも生贄に捧げられていると言う特色であろう。そして聖餐式を受けることにより、カトリックは罪の赦しを得るという。言い換えるならば、カトリック教会は、聖餐式は罪を贖う犠牲としての恵みであると教える。それゆえキリストは、神父がウエハーを聖別するたびに、今なお苦しみ、死ぬことになる。カトリック教理問答は、次のように説明している。

 

 生贄として聖餐式は生死における罪の償いを提供するものであり、霊において、また、この世において、神からの恵みを受けるのに有益である。[13]

 

 このミステリーが祝されるたび、「われわれの贖いの働きが実行される」[14]

 

 聖餐式は、かように、十字架上の生贄を象徴するので、生贄なのである[15]

 

 これらの教えは、まさに神の御言葉と矛盾する。主イエスが十字架上で死んでくださったとき、主は、「完了した」とおっしゃった。(ヨハネ19:30)

 

 ギリシャ語では“tetelestai”を使っている。ギリシャの会計用語で十分支払われたことを意味する。我々の救いの働きは完成しているのだ!

 

 キリストは十字架上で、一度だけすべての人類のために贖いとして買い取られたのだ。主イエスは、カトリック教会が教えるように、聖餐式において絶えず生贄にささげられるべきではないのだ。聖餐式に与ることは、神をなだめることにはならないし、罪の贖いにもならないのだ。もし、あなたがカトリック教徒であり、単純に神の御言葉として神を受け入れるなら、次節は変革的かつ革命的なものとなろう。

 

ところが、キリストは、ほんとうのものの模型に過ぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今や私たちのために神のみまえに出てくださったのである。大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて、罪を取り除くために、世の終わりに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受ける事とが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられたあと、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負う為ではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである。(ヘブル9:24~28)

 

こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。(ヘブル10:11~14、18)

 

なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。(ローマ6:10)

 

キリストも、あなた方を神に近づけようとして、自らは義なる方であるのに、不義なる人々の為に、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。(第一ペテロ3:18)

 

 明らかに聖餐式におけるカトリックの教理は、神の御言葉と矛盾する。それゆえカトリックのミサに出席するのは、謀反を起こすことにもなる。更に悪いことには、一片のパンを礼拝し、拝むなど、いまいましい行いでなくて、なんと言うのか。このことは、まさしく偶像崇拝になってしまう。(出エジプト20:,5)

 

参照 出エジプト記20:4,5

20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

要約

 

 もし、化体が真実ならば、主イエスの体は何十万という礼拝堂に、同時に現れなければならない。しかし、神の御言葉は、主イエスは、ただ一つの体を持つと明確に述べている。「十字架によって、二つのものを一つの体として神と和解させ、」(エペソ2:16)そして、「私のために体を備えてくださった」(ヘブル10:5)

 

 最後に、多くのカトリック側の反発を覚悟して言うが、聖書のどこにおいても、聖霊は祝されたパンが主イエス・キリストの文字通りの体、血、霊、神性になったなどと教えている箇所は、残念ながら見当たらない。化体の支持者は彼らの教理の根拠として、唯一つたりとも、はっきりとした聖書的教えすら示すことはできない。

 

 “Foxe's Book of Martyrs”よりひとつ、最後となるが、引用しよう。それは英国コーンウォール州に住んでいたプレスト夫人という方が、いかにして化体を否定したことにより告発されたかが書いてある。杭につけられ火あぶりにされる前の、カトリックの僧侶に対する彼女の最後となる言葉は、なんとも言いがたい。

 

 キリストは身体的にも霊的にも、再びこの世に来られるまで、永遠に父なる神の右に座していると言っている真情を否定することができるでしょうか。もしくは、主は天において、われわれの擁護者として、父なる神に対し我々のために、とりなしてくださっているということを否定できるでしょうか。もし、そうであるならば、主イエスは一切れのパンの中、地上にはおられない。もし地上におられないなら、人手により造られた神殿になど住まず、天におられるとするなら、なんと!なぜ、このようなところに、主を探さねばならないのですか?ただ一度だけすべての人のために、主はご自分の体を捧げてくださったのに、なぜ、新たに生贄を捧げるのですか?一つの捧げ物として、主がなさったことが完全であるのに、なぜあなた方は、誤った捧げ物をもって、不完全を成すのですか?主が霊的に真実において礼拝されるべきなら、なぜ、一切れのパンを礼拝するのですか?主は誠実と真実において食され、飲まれるのに、また主の肉が我々の間では有益でないので、自分たちで主の肉と血をつくろうと言うのですか?つくったものが身体的にも霊的にも有益なのだと、なぜ、言えるのですか?ああ!私は小さきもの(女)ですが、あなた方のようにするよりは、むしろ死を選びましょう[16]

 

 更なる研究のため、付録Aを参照ください。化体を論破するべく多くのことを聖書から引用してまとめてあります。

 

付録A:聖餐に関する聖書的要約

 

聖書参照箇所:意義、重要性

 

私たちの過越しの子羊であるキリストはユダヤ人が奴隷の身からの開放の記念として過越しをすでにほふられたのだ。(コリント5:7)

 

祝ったことから、私たちも聖餐を罪の身からの開放のイエスは彼らに言われた、「私は苦しみを受ける記念において祝うのである。前に、あなた方とこの過越しの食事をしようと主イエスは、私たちの過越しの子羊なのである。切に望んでいた。(ルカ22:15)

 

出エジプト12:1-4、13:6-10も参照のこと

 

私のパンを食べているものが、私にむかって主イエスは、霊的交わりの要素を祝福したあとでもそのかかとを上げた。(ヨハネ13:18)

 

ただのパンとしてとらえた。

 

感謝してこれをさき、そして言われたパウロはパンを祝したあとにおいても、ただのパンとして「これは、あなた方のための私の体である・・・扱った、だからあなた方はこのパンを食し・・・」(コリント11:24-26)

 

これは、あなたがたのために与える霊的交わりにおける祝福は、完了した十字架のはたらき私の体である。私を記念するための記念にある。このように行いなさい。(ルカ22:19)

 

だから、あなたがたは、このパンを食し「主が来られるときまで」という言葉は、主は天に挙げられたということを前提にしている。

この杯を飲むごとに、それによって、主が来られるときに至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(コリント11:26)

 

キリストは天に上って神の右に座し・・・・多くの聖書の節は、主イエスの唯一、一つの御体は天にあると述べている。(第一ペテロ3:21,22)            

                

マタイ26:64,ローマ書8:34,エペソ1:20,コロサイ3:,ヘブル書1:,:24・25,12:2も参照のこと

 

「私のために体を備えてくださった」

化体は受肉、昇天という聖書的教えとは矛盾する。(ヘブル10:5)

 

降りてこられた者自身は同時に、主イエスは、唯一つの体を持ち、天におられる。

 

もろもろの天の上にまで上げられた主イエスの体は、世界中の何千という礼拝堂にはない。型なのである(エペソ4:10)

エペソ2:16も参照のこと

 

人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。わたしがそしてあなた方に話した言葉は霊でありまた命である。(ヨハネ6:63)

ヨハネの福音書6章で、主イエスは、主ご自身命のパンである主の肉を食べなければならないと言っておられるが、主は、肉は何の役にも立たない・・・あなたに話す言葉は霊であるとの陳述をもって文脈を組み立てている。

 

私は門である。私を通ってはいる者は救われるヨハネ10:9)

主イエスが、明らかに譬として言われた時、文字通りの木でできたドアであると信じるものは誰もいないであろう。私は命のパンであるとの主の言葉と、どう違うのであろうか?  

 

しかし、いと高き者は、手で作った家のうちにはお住みにならない。(使徒7:48)

 

主イエスは神であって、寺院、神社、礼拝堂の類にはお住みにならない。天におられるのだ。

列王記8:27、使徒17:24も参照のこと

「血を避けなさい」(使徒15:20・29,21:25)

使徒たちは、信者に血を避けるよう命じた。

もし聖餐式が、主イエスの体と血になるのならそこには矛盾が生じる。

レビ記3:17, 7:26・27も参照のこと

 

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、それに仕えてはならない。(出エジプト20:,)  

 

聖餐的崇拝はこの二番目の戒めを犯すものだ。我々は神ご自身以外礼拝し頭をたれるべきではない。・・・それにひれ伏してはならない。

 

「こうして、すべての祭司は立ってすべての罪を贖うのである。」

聖餐式は間断なき罪のための生贄ではないし、日ごとに儀式を行い、たびたび同じような生贄を、罪を贖うものでもない。捧げるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるにキリストは、多くの罪のために十字架上の主による唯一なる捧げ物が一つの永遠の生贄をささげた後、神の右に座し・・・ 彼は一つの捧げ物によって、清められた者「完了した」、ギリシャ語では「十分に支払われた」を意味するが、主イエスは十字架上で言われたではないか。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のための捧げ物は、もはやあり得ない。(ヘブル書10:11-18)

 

注釈

 

.「カトリック教会における教理問答集」、イメージブック、published by Doubleday、1994、para.1324,P368

 

.Ibid.para.2181,P583

 

.Ibid.para.2120,P570

 

.この過程は、化体と呼ばれ、カトリック教会の教理問答集、パラグラフ1373-1377と1413、383-385ページ

と395ページにおいて述べられている

 

.「カトリック教会における教理問答集」para.1374, P383

 

.Ibid.para.1380,P385,386

 

.Ibid.para.1418,P395

 

.使徒行伝20:27

 

.コリント11:20

 

10.「ホールマン聖書辞典」、Parsons Technology 1994

 

11.霊的交わりに関する聖書的教えは、次の節に見つけることができる。

マタイ26:17~35、マルコ14:12~31、ルカ22:7~23、ヨハネ13:1~17,26とコリント11:17~34

 

12.出エジプト3:11~15

 

13.「カトリック教会における教理問答集」、para.1414 , P395

 

14.Ibid.para.1405,P393

 

15.Ibid.para.1366,P380

 

16.ジョン・フォックス、「フォックスによる殉教者の書」、テネシー、ナシュビル、トマス・ネルソン出版社、2000年、P155