サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第16章 パンのききん 

 

~教会における「御言葉を聞くことのききん」について~ 

 

【テキスト】アモス書8:1114

11.見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

12.彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。

13.その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。

14.サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」

 

 

 

    ( 神の御言葉が盗まれ、変えられている)

 

 

本日は「パンのききん」として、アモス書から見ていきましょう。

 

順に見ていきます。

 

11.見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

 

この終末のききんは、パンのききんではありません。ですから共産主義国であるように、聖書そのものが手に入らない、そういうききんのみを指すものではないのです。逆に「実に、主のことばを聞くことのききんである」と書かれています。ですから主のことばを聞くこと、すなわち教会の礼拝メッセージ、説教について語られているのです。

 

「どこの教会でもりっぱなメッセージがある。何がききんなのだ」という人もいるかもしれませんが、しかし、私の見る限り、多くの人がこのききんの中にいます。

 

どんなにお腹がすいて、今にも倒れそうな人でもパンを食べれば普通は元気になり空腹が満たされます。力が出てきて足取りも軽く、元気になるものです。しかし、今の教会において、なぜ弱っている人、力のない人、満たされない人が多いのでしょうか。これこそ教会において「御言葉を聞くことのききん」があることを示すのではないでしょうか。

 

たとえば現在でもインド、アフリカ等でよく「ききん」が起きます。それらのききんの中にいる人の特徴はなんでしょうか。体がやせていて、まともに歩けなかったり、生きているのか、死んでいるのかわからない、そんな感じではないでしょうか。

 

そしてこれは、今の日本の教会にも起きていることではないでしょうか。私たちの肉体は弱っていないとしても、その霊において弱っており、教会をききんが覆ってはいないでしょうか。

 

神の御言葉に問題があるわけではありません。聖書のことばは、主イエスのときから何も変化はないからです。しかし今、多くのメッセンジャーのメッセージに関して「御言葉を聞くこと」に関するききんがあると聖書は語っているのです。

 

私たちは、この声に謙虚に耳を傾けなければなりません。全て御言葉に仕える者は祭壇の前で、主の前に泣いてそのあわれみを求めるべきではないでしょうか。ききんは、まさに私たちの教会を覆い、この民を覆っているのです。

 

12.彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。

 

彼らは主の御言葉を探し求めます。「しかしこれを見いだせない。」のです。たしかに今は、この預言が成就しています。多くの信者があの教会、この教会、そしてあの集会、あの聖会へとさまよい歩いているのを見ます。「信者は、あちこちの教会を歩き回るな。それは信仰的でない。」などと言う牧師もいるかもしれません。しかし、彼らは「いのちのパン」を求めて歩き回っているのです。

 

腹が減って、ラーメン屋を一生懸命探し回る人はよくいます。しかし、ラーメン屋で食事をした後、さらに他のラーメン屋やそば屋へ向かう人はいません。最初の店でたっぷり食べた人は、もうとりあえず食事やパンのことは忘れます。そして他のこと、勉強のことやら、音楽のこととかを考え始めるものです。

 

しかし教会においては、そこで満たされず他へ向かう人々がいるのです。教会へ来ている人が、なおかつ遠くの集会や聖会へ行くということは、じつはその店(教会)で、食べるべきものを食べられなかったからかもしれないのです。一概に信者が非難されるべきだとは限りません。そして、彼らの「飢え」は、このようにさまよい歩いても満たされません。「しかしこれを見いだせない。」と書かれている通りです。それは、今がまさに、「ききん」の時代だからです。

 

13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。

 

その日は、終末の日です。「渇き」は水、すなわち、「聖霊」と関係することばです。この終末の日、多くの神の民は、単に「御言葉を聞くことのききん」に会うだけではなく、「渇き」すなわち聖霊の「水不足」にも会います。

 

彼らが主のことばを退け、また、聖霊なる神を「追い出す」ためにそのようなときを迎えるのです。人間にも、幼児期、青年期、老年期等の時期があります。そして、その中でも青年期は、男でも女でも一番力と美しさに満ちた時です。しかし、そのような力に満ちた青年期の信者たちでさえ、その日には、「渇きのために衰え果てる」のです。今がそのときなのではないでしょうか。私は多くの人々が、その内側に霊の渇きを覚え、衰えているのを感じています。

 

14.サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」

 

「サマリヤの罪過にかけて誓う」人々は、サマリヤの教理、教義を受け入れている人々です。サマリヤは、北イスラエルの首都、今で言うカトリックの予表と思われます。彼らがその罪過にかけて誓っている間は、「倒れて、二度と起き上がれない」のです。

 

 

 

 

プロテスタントと比べて見ると、カトリックの特徴は、「ローマ法皇、マリヤ礼拝、66巻以外の聖書(外典)等」です。これらを彼らは誇っているかもしれませんが、それは、「罪科」であると主は言われるのです。

 

そして彼らが、霊的に飢え、渇く、それを満たすため、人によっては、仏教やヒンズー教まで行くようですが、その原因は、この「罪科」のゆえだと主は言われるのです。

 

裏返すなら、これらの「罪科」を捨て去る人々は、この「ききんの時代」にあっても、飢えることなく、渇くことがないのです。

 

あの「サマリヤの罪科」の満ちあふれた時代、すなわちアハブ、イゼベルのバアル礼拝にあふれた時代、そしてエリヤの3年半の「雨の降らない期間」に、ツアレフアテのやもめのみ「パンと油」に飢えることのなかったことを思い出しましょう。

 

終末においてであっても、ききんは、主につく人々を襲うことはありません。このことを聖書は繰り返し、述べています。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-