サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第20章 べテル 

 

~民を偶像礼拝へと導くヤロブアムは、現代カトリックの予表~ 

 

【テキスト】創世記31:13

3113.わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』

 

ベテルとはどういう場所なのでしょう?それを見てみましょう。このベテルに関して聖書はテキストのように述べます。

 

かつて自分の家を逃げるようにして出てきた、ヤコブ、すなわち全イスラエルの先祖である彼は、ここで、神にであったのです。それだからこそ、「そこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てた」のです。

 

 

 

それで、それにならって、イスラエル人は代々この地で主に礼拝をささげるようになりました。しかし、ある時を契機にこの場所は変質してしまいました。以下のようにです。

 

参照 Ⅰ列王記12:2833

28.そこで、(ヤロブアム)王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」

29.それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。

30.このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。

31.それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。

32.そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。

33.彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。

 

この日、ベテル、神と出会う場所であったはずのベテルは変質してしまいました。

 

この場所には、神ならぬ金の子牛がおかれるようになったのです。彼、ヤロブアムは、「金の子牛を二つ造り」「ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言ったのです。そして、イスラエル人に、イスラエルの神の名において、金の子牛の礼拝、すなわち、偶像礼拝を強いたのです。

 

このことは象徴的、暗示的です。彼、ヤロブアムは、全然別の神を持ってきて、ヒンズー教や仏教の神を持ってきて、「これを拝め」と言っているわけではないのです。そうではなく、彼は「ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言い、先祖たちが拝んだ神を拝するような態度だけは、一応あるのです。しかし、その実際は、「金の子牛」、偶像礼拝へと民を導いているのです。

 

さて、ヤロブアムは北イスラエルの王であり、北イスラエルは現在のカトリックの予表であることを思い出しましょう。この日、ヤロブアムが民に強いたことは、現在の日、カトリック教会が、その信徒に強いていることの予表であり、警告です。すなわち、現在のカトリック教会においても、聖書の神の名において、その実、金の子牛への礼拝、器礼拝、偶像礼拝が、行われているからです。

 

彼らは教会で、聖書の神、キリストを拝すると言っていますが、実際に行っているのは、法皇崇拝、聖人崇拝、マリヤ崇拝です。牛は、羊と共にクリスチャン信徒のたとえであり、金の牛は、「信仰のすばらしい聖徒」のたとえです。

 

カトリックには、多くの聖人がいます。彼らが信仰的に立派だったことは、たしかでしょうし、そのこと自体はすばらしいのですが、しかし、だからと言って神の代わりに彼ら、聖人を拝したり、「聖人」に祈ったりすべきではありません。それは、いや、それこそ、「偶像崇拝」だからです。

 

最近、マザーテレサが聖人だか、福者だかに列せられたということを聞きました。随分早い列聖ですが、その理由は、奇跡が起きたから、だと言います。その奇跡とは、あるインド女性が彼女、マザーテレサに対して祈ったら、ガンだかが、癒されたとのことです。神に祈ったら癒されたというなら、これは真っ当なキリスト教ですが、しかし、聖人、マザーテレサに対して祈ったら、癒されたというのは、これは異端の教理であり、また、ここで言う金の牛を拝する行為そのものです。

 

ですから、明らかにこの冒涜的な行為、「ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言いながら、実際は金の牛を示すという予言的な行為は、現在のカトリック教会において、成就していることがわかります。

 

また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。

 

このことばも暗示的です。これらの祭司たちは、「神ではなく」、彼、ヤロブアムにより、任命されていたことがここに記されています。神に任命された祭司であろうと、ヤロブアムに任命された祭司だろうとすることは、同じようなことかもしれません。両者ともに、礼拝、宗教的なことに従事するのかもしれません。しかし、この両者には決定的な違いがあります。それは、ヤロブアムによって任命された祭司は、「神の意志」というよりは、ヤロブアムに忠実であり、ヤロブアムの意志を行うということです。

 

今、多くのカトリックの祭司は、「ことばは神である」と言われた方のことばを裏切り、「偶像を拝するな」との明確な戒めを破り、「礼拝と崇敬は違う(???)」などという蛇のような屁理屈をつけて、神の民にマリヤ像等を拝させています。また、「唯一のあがない主」をさておき、「共同のあがない主マリヤ」などという異端教理を恥ずかし気もなく、教会に持ち込んでいます。なぜでしょう?彼等は聖書を読んだことがないのでしょうか?その理由は、彼らが「神に任命された」のではなく、「ヤロブアム」、法皇により、任命された祭司たちだからです。

 

彼らは「神により選ばれた使徒」と自ら語り、実際そうであったパウロとは、別の範疇の人々です。

 

33.彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。

 

彼、ヤロブアムは勝手に考え出した日である、8月15日を祭りの日と定め、それを神の民に祝わせました。この日は聖書、律法の中で明確に定められた初穂の祭りの日や、仮庵の祭りの日とは異なります。自分で勝手に考え出したものなのです。さて、カトリックにおいても、多くの 「勝手に考え出した祭りの日」があります。多くの聖人の日があり、聖人カレンダーまであるようです。しかし、これらのどれも、神、聖書が定めた日ではありません。ヤロブアム、すなわち、カトリック教会が勝手に考え出した日なのです。

 

さて、日のことは一例です。この教会は、このように祝う日も自分で勝手に考えたものを祝いますが、同じことはその礼拝形式、方法にも及んでいるのではないでしょうか。

( マリヤ像に祈る人たち-----偶像に祈ることは聖書で禁じているのだが!)

 

 

聖書になんらの根拠のない、無源罪の法皇だとか、共同のあがない主マリヤなど、よく言えば、オリジナル、悪く言えば単なる異端教理を恥ずかし気もなく、披露しています。そして、聖書の神に従うよりは獣法皇に従うことを選び取ったカトリック教徒は、バアル信者のように、果てしなく聖書からかけ離れた教えを受け入れ続けています。

 

さて、以上のように、ベテル、かつて、全てのイスラエル人の先祖ヤコブが神にあった、場所、すばらしい神の臨在の場所、ベテルはこのように変質してしまったことを見ます。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-