サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第36章 ペテロはイエスを否定する

 

~ペテロの後継者に率いられる教会により呪いを込めてイエスを否定することが起きてくる~ 

 

【テキスト】マルコの福音書14:6672

66.ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

67.ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

68.しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

69.すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。

70.しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

71.しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

72.するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

 

本日は、「ペテロはイエスを否定する」という題でメッセージします。

 

 

 

 

かつての日、ペテロがイエスを否定した、そのことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

 

テキストに沿って見ます。

 

66.ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

67.ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

 

ここでペテロは大祭司の女中から詰問されています。この時はどのような時かと言うと、イエスに着く者は有罪とされ、逮捕されるという時です。かつてはそうでもなかったのですが、今は、イエスに着いているというだけで、詰問され、逮捕もされるかという時となったのです。

 

同じような時代が終末の日にやってくることを聖書は繰り返し、ことばを変えて預言しています。その日は試練の日、また選り分けの時代であり、堅く主に着く者とそうでない者とが区分される時代です。

 

68.しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

 

さて、かつての日、不覚にも主を否定してしまったペテロについて、今日は学んでみたいと願っているのです。しかし、そうは言っても、私たちは彼を非難しようとしているのではないのです。彼の動機は純粋であり、彼の失敗は他人事ではありません。

 

しかし、このこと、彼、ペテロの行った主を否定するということは、ペテロ個人のことであると共に、さらに未来への預言的な事柄とも理解できるので、それでこのことから学びたいと願っているのです。

 

何を言っているのかと言うと、この箇所もペテロと関係する教会、あのカトリックの未来に関する預言とも理解できるので、その視点から見ていきたいと願っているのです。ここでペテロが言う、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」とのことばは、「知らない、言っていることがわからない」というニュアンスがあります。

 

主イエスをもっとも良く知る弟子であるはずのペテロが皮肉にも、主を「知らない」また、主のことばを「何を言っているのかわからない」と言うようになる日の預言とも理解できます。

 

もう一つの意味合いがあるかもしれません。女中は、「ナザレのイエス」について語ったのです。そして、彼、ペテロはそのイエスを知らない、何を言っているのか分からないと言っているのです。イエスという名前は個人の名前であると共にそのことばには、意味合いがあり、その意味は「救い」という意味です。ですから、ここで彼ペテロはもちろん、ナザレのイエスを知らないと言っているのですが、しかし、そこには隠された意味合い、預言的な意味合いがあり、「救い」に関して語っているとも理解できます。

 

一体何を言っているのかと言うと、後の日、ずっと後の日、ペテロの後継者と自称する人々によって導かれる教会の人々が、イエスを知らない、すなわち、救いを知らない、もっとはっきり言えば、この教会が救いと無関係になる日の預言とも理解できるのです。

 

そのような考え、理屈は言いがかりだ、こじつけだとの考えもあるでしょうが、しかし、現状は、残念ながら、このことを裏付けるように思えます。

 

この教会では、行いが強調され、善行が強調されます。救いや天国を求める人々に対してまがいもの、偽りの道が用意されているのです。煉獄という聖書的でない教理も公に言われています。この教会の多くの人々がはっきり言って、救いとは無縁です。

 

69.すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
70.
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71.
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

 

さて、悲しいかな、この箇所で、主の弟子、筆頭弟子として、自他ともに認めていたあのペテロが、のろいをかけて、その人、イエスを知らないと誓っているのです。このことは残念で悲しいことですが、しかし、それはまた終わりの日にペテロの名前を持つ人々により治められる教会、カトリックの教会に起きる事柄の予表と思えます。

 

呪いをかけるということを考えてみましょう。実は、今、ペテロの後継者を自称するローマ法皇とは、よく呪いをかける人であることを知ってください。ローマ法皇の呪い、アナテマ(ギリシャ語で呪いの意)という儀式がこの教会の中にあります。その儀式を行う時、ローマ法皇は、枢機卿を引き連れ、アナテマ(呪われよ)と叫び、持っているローソクを吹き消すとのことです。角笛HP、カトリックの記事の中にこの記述があります。

 

そして、なんと、もうすでにイエス、すなわち、救いについてローマ法皇は呪いをかけています。彼は、「救いに行いが必要は無いという者は呪われよ」と、呪いの儀式を行っているのです。聖書は明らかに「恵みにより、信仰により救われる、行いによるのではない」ことを語っています。ですから、このローマ法皇のことば、呪いは、明確に聖書のことばに挑戦し、そして、救い、すなわち、イエスを呪いをこめて否定しているのです。

 

さて、このことは残念ではありますが、ペテロの後継者を自称する人々によりリードされる教会において実現しています。そして予想されることは、この傾向はますます増え、強くなり、この教会は、最後には、その信者たちに呪いをかけて誓わせるようになるのでしょう。

 

いわく、「イエスのみが唯一の救いであるという者は呪われよ」「あなたはこのこと、善行による救いを誓うか、もし誓わないのなら、あなたは唯一の教会から追放される」そんな日も来るのかもしれません。これは、私の想像ですが、しかし、今のままだといかにもありそうなストーリーです。

 

72.するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

 

ここにも、「あなたは、わたしを知らないと三度言います」と言うように、“3”という数字が出てきます。“3”という数字には隠された意味合いがあるとも理解できます。その隠れた意味合いは、私の理解では、3つ目のミレニアムではないかと思われます。すなわち、このこと、ペテロの後継者に率いられる教会が、イエスを否定し、あろうことか、イエス、救いを受け入れる人を呪いをもって拒否する、冒涜のきわみに達するその日は、3つ目のミレニアムのことではないかと思われます。

 

そして、そして我々は、今、そのミレニアムにいるのです。

 

さあ、あらゆる御言葉が成就するという終末の時代に我々は、もう既に入っているようです。もし、そうなら、このこと、ペテロが主を否定する、すなわちペテロの後継者に率いられる教会がイエスを否定するということも起きてくるのでしょう。

 

残念ではありますが、しかし、主のことばが、主のことばのみが正しいのです。我々は時代を見分け、教会を見分け、この方のことばのみを頼りに歩みましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-