サマリヤの女

 

 カトリックへの警告!!

 

第4章 牧師、偽預言者の間違えについて 

 

~終末の時代の偽預言者の危険~

 

【テキスト】エレミヤ23:2540

25 「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いた。

26 いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。

27 彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。

28 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。主の御告げ。

29 わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。主の御告げ。

30 それゆえ、見よ、主の御告げ。わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。

31 見よ。・・主の御告げ。わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。

32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。主の御告げ。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。主の御告げ。

33 この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。主の御告げ。

34 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」

35 あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。

36 しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。

37 「あの預言者たちにこう言え。主は何と答えられたか。主は何と語られたか。

38 もし、あなたがたが『主の宣告。』と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。『わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告というこのことばを語っている。

39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、

40 永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

 

本日はエレミヤ書から偽預言者に関して学んでいきたいと思います。まず、はじめにこのエレミヤ書の背景について考えてみたいと思います。このエレミヤ書では、エルサレムや宮の崩壊について述べています。これらは勿論実際のイスラエルの首都エルサレムへの預言、警告です。しかし、もう一つのことがあります。この書は霊的なエルサレム、宮である教会への預言でもあります。

 

なぜそう言えるのでしょうか。それはこういうことから分かります。たとえばダニエルが70週の預言をした時、彼はエレミヤ書について述べています。70週の預言は神の都、エルサレムに関する預言です。しかしその預言の扱っている期間は旧約時代に止まらず、教会時代をも含んだ長いものになっています。そのことから、この70週の預言は旧約の都市エルサレムに関するものにとどまらず、新約の霊的エルサレムである教会に関するものでもあることが分かります。2重の預言であることが分かるのです。

 

      (キリストもエルサレムの崩壊について語った)

 

 

そして、ダニエルがその70週の預言を受けた時、エレミヤ書について言及しているのも意味があってされていることなのです。エレミヤ書には、エルサレムや宮の崩壊、神の民がバビロンへ捕囚されることについて述べてありますが、これは実際の旧約の都市エルサレムの崩壊について預言すると共に、新約の霊的エルサレムである教会のさばきについても述べているのです。これも2重の預言であることを暗示しているのです。そのことを示すためにダニエル書にエレミヤのことが言及されているのです。ですから私たちがエレミヤ書を読む時、その前提を踏まえて読まないと、正しく理解できません。

           (旧約時代のバビロン捕囚)

                   (エルサレムの崩壊)

 

 

ダニエル書の70週の預言は終末のさばきの時に至るまで完全には成就しません。いいえ、むしろ終末における成就にこの70週の預言の大きな比重があるのです。同じようにエレミヤ書に記されているエルサレム、宮、牧者(牧師と同じ原語)、偽預言者に関する預言も終末の時に完全に成就するのです。ですからこの書の記事は現在の我々にとって、決して無関係ではない、いいえまさにこの時代に関して語られているものなのです。

 

さて、このエレミヤ書の記事を具体的に見ていきましょう。ここでは牧者の罪、預言者の罪について語っています。この牧者とは70人訳では新訳聖書で言う牧師と全く同じ言葉が使用されています。だから、この箇所は新訳の牧師に関するさばきについて述べてあるところです。以下の通りです。

 

“それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。主の御告げ。”(エレミヤ23:2)

 

また、さらにこの章には、偽預言者について書いてあります。この偽預言者は終末に現われる偽預言者-偽教師のことを指します。なぜならこの箇所に“終わりの日ということばが含まれているからです。

 

“主の怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう。” (エレミヤ23:20)

 

ですから、今、牧師、教師の職務についている人々はこの書の警告を他人ごとと思うべきではないと私は思っているのです。

 

“それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。」”(エレミヤ23:15)

 

私たちの理性では受け入れ難いことかもしれませんが、神は汚れがエルサレムの預言者-教会の教師から出てこの全土に広がったと言います。これは、新約の以下のことばの通りです。

 

“イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」” (マタイ13:33)

 

“イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」”(マタイ16:6)

 

主は新約の教会にパン種が広がることを前もって預言されました。そしてそのパン種は、パリサイ人やサドカイ人の教えのことなのです。どうしてそんなことが言えるのかという人もいるかもしれませんが、聖書がそういう以上そうなのです。もし主がペテロやヨハネの教えがパン種だと言われたのなら、パン種についてもっと良い印象を持つべきでしょう。しかしパリサイ人やサドカイ人の教えがパン種だと言われ、しかもそれが全体をふくらませるという以上、彼らの教えにより教会は毒される、いやすでに毒されているかもしれないと思うべきなのです。私たちの理性には納得がいかないとしても。

                     (パン種は膨れる)

 

 

さてテキストに沿って見ていきたいと思います。

 

“わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いた。

 

ここでは神の名により偽りを預言する預言者のことが出ています。偽預言者と言うと、いかにも意図して偽りを画策している人たちというニュアンスを感じますが、実際は“誤った、失敗した預言者のことです。正しく御言葉をとらえられなかった預言者のことです。

 

偽預言者の例としては、イエスの時代の律法学者、パリサイ人のことを考えればよいでしょう。彼らこそ間違えた教師たちです。彼らの特徴は、自分が間違っているとは決して思っていないこと。そして、これは終末においても全く同じことです。今の時代でも多くの偽預言者-間違えた教師がすでに出ています。そして彼らはみな自分が間違えているとはつゆほども思っていません。

 

              (律法学者、パリサイ人は間違えた教師)

 

 

 

   (間違えた教師パリサイ人や律法学者に対して誤りを指摘するイエス)

 

 

さて、テキストの以下の箇所では、教師たちの陥る罪について記してあります。順にみていきましょう。

 

“しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。

 

主のことばを忠実に語らない罪について書かれています。私たちがそう思うかどうかは別にして今の時代は主の御言葉が曲げられ、忠実には語られていない時代です。主はたとえについて語られ、たとえの理解できない弟子たちを叱責しました。しかし今は、その主の御言葉はないがしろにされ、勝手にたとえを理解することはまずいことになっています。また、主は預言をそのテキストのみから解釈するな、他のテキストをも参照して解釈することについて語りましたが、この御言葉は変形され、公の解釈、教会のおすみつきの解釈以外は神が禁止していることになりました。そして、この御言葉に基づいて主の多くの預言者が迫害されたのです。

 

(ダニエルの三人の友シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の炉に入れられた)

 

 

“いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。

 

“いつまでということばは長い期間を暗示させます。偽預言者は長い期間、偽りの教えを民に教えるのです。たしかにカソリックにおいて人々は長い間、偽りの教えの下にいました。そしてあまり長い間その中にいるので、人々はそれが偽りであることにも気が付かないようです。今でもその下にいるのです。そしてそれはプロテスタントにもあることです。

 

“わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。

 

神のことばを盗むと書いてあります。どうぞこのことばが何をいっているのか考えて見て下さい。これは多くの御言葉のメッセンジャーが陥りやすい罪について語っているのです。神のことばの真に意図していることを告げず、逆に神のことばを引用しながら自分の考えや思いを述べる罪について語っているのです。

 

“わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。

 

ここで、神の御告げを伝える預言者への警告が書かれています。神の御告げを伝えることに何の問題があるのでしょう。何が問題なのでしょう。この節の特長は“自分たちの舌で御告げを伝えることについて書いてあることです。“自分の舌ということばは自分の考え、方法を指すのでしょうか。少なくとも神の方法、考えではないのでしょう。神の言葉が使われており、神の名において語られているが、しかし実態は違うと主は言われるのです。また、舌ということばに注目して下さい。これはヤコブ書に教師へのたとえとして出てくることばです。

 

参照 ヤコブの手紙3:59

3:5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

3:6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。

3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。

3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

 

        (舌は火であり、不義の世界-ヤコブの手紙36節-)

 

 

“彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。

 

キリスト教会の中にも偽りが多いです。たとえばカソリックの教会では人の前で罪を懺悔するということを聞きました。罪は許されたいが、しかし人前で恥ずかしいことを言わなければならないのは辛いことです。この教理のために多くの人が苦しみます。しかし、これは偽りの教えです。

 

“この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。主の御告げ。

 

新改訳では“主の宣告と書いてありますが、KJVを初めとする多くの英語聖書は“主の重荷と訳しています。そのように訳すとこれらの節の意味がはっきりわかります。このような意味合いです。

 

“この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の重荷は何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。・・主の御告げ。

 

ですから、ここはこういう意味合いになります。主に仕えると自称する神の働き人が“一体主の重荷は何でしょう。何を主は重荷として私たちに負わせられるのでしょう。私たちは何をすべきでしょうと尋ねているのです。それに関する主御自身の回答は“他でもないあなたたち自身が私の重荷だ。とてもあなたたちには耐えられないと答えているのです。非常に皮肉な回答になっています。

 

これは何を言っているのでしょう。主の与えて下さった重荷と言いながら、勝手なこと、勝手な働きをしている人々が多いということを言っているのです。たとえば、“これこそ主の与えた我々の教会への重荷だと言い、何十億円もするような大きな会堂を建設する、そのため教会が疲弊してしまう、しかし実は主はそんなことを命じていなかった、そのようなことがあるのです。

 

“あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。

 

ここで言っていることはこういうことです。主は何と語られたか。すなわち主の実際に語られたことばのみを語れということです。人の作り出した重荷を勝手に主の重荷と呼び、人の思いから出た重荷を勝手に神の重荷にするなということです。

 

“しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。

 

ここで神のことばを曲げると書いてあります。神のことばが真に意図していることが偽預言者の口により曲げられていると言われるのです。

 

“ それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

 

誤りの牧師、偽教師-間違える教師のために、主はこの町-神の教会をその前から捨てると言われます。これは何を意味しているのでしょう。これは教会のさばきについて語っているのです。しかし、私たちにあっては終末における主の御心をおこなっていきたいと思います。

 

                 (神のさばきを恐れる)

 

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-