サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第60章 サマリヤのリバイバル

 

~聖書のことばを否定し、文字どおりに受け入れない、冒涜教会、カトリックにも福音が訪れる日が来る~

 

【テキスト】使徒の働き8:524

5.ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

6.群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

7.汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。

8.それでその町に大きな喜びが起こった。

9.ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

10.小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。

11.人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

12.しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

13.シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。

14.さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

15.ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

16.彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

17.ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

18.使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

19.「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。

20.ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。

21.あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。

22.だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。

23.あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」

24.シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 

 

本日は「サマリヤのリバイバル」という題でメッセージをしたいと思います。テキストに沿ってみていきます。

 

5.ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

サマリヤはどこの町かというと、北イスラエルの首都です。ですから、これは北イスラエル、たとえとしては、今のカトリックに関する話なのです。この日、ペンテコステの日、ピリポは良き訪れをサマリヤへ伝えました。さて、ペンテコステの日、初穂の祭りに起きたことは、大収穫の日、終末の日
にもっと大規模な形で起きてくると思われます。

 

すなわち、カトリックに関しても神が顧みる日が来る、そのことの予表なのです。

 

6.群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

7.汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。

8.それでその町に大きな喜びが起こった。

 

サマリヤはイスラエルの首都であり、それは、アハブ、イゼベルに連なる偶像崇拝の地であり、背教の地なのですが、この日、神により顧みられ、すばらしい神のわざを拝したのです。同じことは、終末の日に再現するでしょう。その日、マリヤ像を拝み、聖人崇拝に余念のない背教の教会、カトリックに、神の憐れみの手がのべられる時がくるでしょう。

 

9.ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

10.小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。

 

さて、神が憐れみの手をのばしたこのサマリヤにある問題人物がいました。彼の名前はシモン、彼は魔術を使います。ところが、サマリヤの人々は、彼のその実態を知らず、これは神からのわざだと思い込みました。

 

このシモンは後の日、教会時代の予表であり、カトリックを牛耳るローマ法皇、シモン・ペテロの後継者であると自称する人々をあらわしたものです。ここで聖書はにべもなく、躊躇もなく、シモンのわざを暴露し、それは魔術であると述べています。ですから、このことばに沿って、私たちはカトリックで行われている奇跡だの、神秘だの、神のわざだのを再度吟味しなければなりません。それは、何と魔術であり、神の霊でなく、悪霊から来たわざなのです。

 

しかし、そう言われて見れば、カトリックで起きる、霊的現象について、何となく納得がいきます。何とも薄気味悪い血を流すマリヤ像だの、腐らない死体などは、神のわざというより、魔術と聞けば納得がいくのです。

 

これらの奇跡をありがたがって、熱心に法皇の言うことを鵜呑みにしているカトリック信者こそ、シモンの魔術に驚かされ、心服しているサマリヤの人々により予表されているものです。

 

11.人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

 

北イスラエルの首都サマリヤ、神の民の中心地であるはずのサマリヤの人々は、みなこぞって、このシモンに関心を抱き、また、長い間、その魔術に驚かされ、翻弄されていました。悲しいことに、神の民が、魔術を、神のわざと思い込んでいたのです。

 

このことはまさに今のカトリックの姿そのものなのです。彼らは神のことばに従うのでも、イエスの教えに従うのでもなく、しかし、その代わりに魔術師シモン、すなわちシモン・ペテロの後継者を自称する歴代の法皇に、長い間、惑わされてきたのです。結果、聖書とも。キリストとも関係の無い、魔術教、マリヤ教、偶像崇拝教に従事してきたのです。

 

12.しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

13.シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。

14.さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

 

この日、サマリヤの人々は神のことばを受け入れました。しかし、彼らがこの日、神のことばを受け入れたということは、逆にそれまで、彼らは神のことばを受け入れていなかった、そのことも分かります。

 

このことは暗示的であり、重要な事柄です。なぜなら、異邦人ではなく、イスラエル12部族の子孫である北イスラエルの首都、サマリヤの人々が、実は神のことばを今まで受け入れていなかった、そのことが書かれているからです。

 

そして、そのことは暗示的であり、後の日の予表です。なぜなら、今の日のカトリックも、また、神のことばを受け入れていないからです。キリストの教会であるカトリック教会が、神のことばを受け入れていないと言うと言いがかりのように思えるかも知れませんが、そうでもありません。

 

ローマ法皇が「進化論はあまりにも科学的であり、否定できない」などともって回った言い方をしている、その心は、「神が人間を創った、動物を創った」とする創世記、神のことばを否定し、神話扱いする、ということなのです。彼らが同じ伝で、「マリヤを含めた四位一体」などとの冒涜教理を振りかざすとき、それは、「この方以外に救いはない」と、キリストについて語る聖書のことばを否定するものなのです。

 

そしてそのように、聖書のことばを否定し、文字どおりに受け入れない、冒涜教会に福音が訪れる日が来ます。それを預言するのが上記箇所であり、その日はいずれカトリックに来るでしょう。その日、彼らにとり、神のことばは、信頼に足るものとなります。

 

15.ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

16.彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 

ここで、サマリヤの人々は洗礼を受けていたが、しかし、聖霊は誰にも下っていないことが書かれています。

 

北イスラエルの首都であるサマリヤの人々は洗礼を受け、水の洗礼は受けていたのですが、しかし、聖霊は誰も受けていなかったのです。

 

このことは、カトリックの現状を示す予表です。なぜなら、この教会も水の洗礼に関しては、何かと大騒ぎをするのですが、洗礼で予表されている聖霊を受けることには無頓着、何も知らず、受けてもいないからです。

 

ですからカトリック、それはおかしな教会であり、水の洗礼に関しては大騒ぎ、大きな問題にするくせに、肝心の聖霊を受けることは知らない、そのような無知な本末転倒の教会なのです。

 

繰り返して言うようですが、カトリックの問題は水の洗礼はたしかに受けていても、聖霊を受けていないことです。それがもっとも大きな問題です。聖霊を受けてない、それゆえに彼らの言動は本末転倒なものとなり、何が正しく、何が悪かを理解していません。

 

「キリストと共同のあがない主マリヤ」などとの冒涜教理を聞くとき、この教えは、「この方(キリスト)以外には救いはない」と明確に記したことばに反抗する恐るべき教理であることは、聖霊を受けている人には自明なのですが、聖霊を受けていない、それゆえ何らの正しいことも理解できない、カトリック信者は惑わされていくのです。

 

あらゆる冒涜教理やら、おかしな霊がカトリックに蔓延しているその理由は、彼らが聖霊を受けていないからなのです。

 

17.ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 

しかし、その日、ペテロ、ヨハネの2人が手を置くと彼らは聖霊を受けました。終末の日に同じことが起きるでしょう。その日、水の洗礼を受けても聖霊を受けていなかったカトリックに聖霊が降り注ぐのです。

 

18.使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

19.「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。

20.ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。

 

さて、このように、サマリヤには神のわざがあらわれたのですが、しかし、このシモンに関しては、金で神の賜物を手に入れようとしていると非難されています。このことは、まさにカトリックの現状を語るものです。法皇職そのものが、かつては金で売買されました。また、免罪符として、お金を入れれば罪が許されるなどとのとんでもない制度を発明したのもこの教会です。

 

21.あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。

 

シモンは神のわざとは何の関係もないし、それにあずかることもできません。同じように、カトリックのローマ法王もその追随者も、神のわざにあずかることはできません。なぜなら、彼の心が神の前に正しくないからです。

 

22. だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。

23.あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」

24.シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 

シモンが「苦い胆汁と不義のきずな」にあること、それゆえ、神のさばきに会う可能性があることが語られています。同じく、カトリックの法皇一派も「苦い胆汁と不義のきずな」の中にある者どもであり、いずれ必ず神のさばきに会う輩であることを知りましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-