サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 



第68章 勇士ナアマンのらい病



 



~罪を密かに患っている人への福音についてみていく~



 



【テキスト】Ⅱ列王記5:110



1.アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。



2.アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、



3.その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」



4.それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。



5.アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。

6.
彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」



7.イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」



8.神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」



9.こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。



10.エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」

 



本日は、「勇士ナアマンのらい病」という題でメッセージをしたいと思います。



テキストに沿って見ていきます。



 



1.アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。



 



ここで、アラムの将軍ナアマンに関する話が出てきます。



 



このナアマンをどうとらえ、理解するかという問題があります。どう考えるべきなのでしょうか?



 



アラムはイスラエルとは違うから異邦人だ、クリスチャンとは全然違う、そういう考えもあるでしょうが、必ずそれが正しいとは言えないと思われます。



 



なぜなら、「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。」と書かれているからです。彼は旧約の神である主と関係のある人物なのです。



 



このナアマンの問題はですから、クリスチャンの問題と無関係ではないのです。というより、彼はこの種のクリスチャン、すなわち勇士であるが、しかし、密かにらい病を患っているクリスチャンの型なのです。



 



彼は勇士であり、今の新約のクリスチャンにおける勇士の型です。クリスチャンの勇士とは?



 



すなわち伝道をして沢山の人を救いに導く、海外宣教に従事する、大きな集会でメッセージをする説教家、そんな類いの人なのです。



 



キリスト教会に名前がとどろく程、有名な奉仕者、しかし、一方らい病を患っている人、それがナアマンをもってたとえられるクリスチャンです。らい病の意味合いは何でしょう?



 



らい病は明らかに罪に関するたとえです。いつだか、某クリスチャン向け新聞に、「らい病は罪の象徴ではない、そんな差別に反対する」なんていう記事が大きく載っていましたが、本当に不遜な行いです。何を罪の象徴とするかは、神が定めるものであり、どのように、何を聖書に書くかも、神が定めるものです。勝手に人や新聞が定めたり、禁じるものではありません。



 



「この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。」



 



勇士であり、神のすばらしい働きに従事しているが、しかし、密かにその体にらいがある、罪がある、こんなことはあってはならないが、しかし、現実に往々として起こり得ることです。ここでは、その問題を取り扱っているのです。一体どのようにして、その悩みの種であるらい病、罪から解放されるか、それをここでは扱っているのです。



 



2.アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、



3.その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」



4.それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。



 



さて、ここでナアマンはイスラエルの王がこのらい病を直してくれることを聞き、そこへ行くことを決意します。我々も、もし彼のように勇士ではあっても、隠れたらい病、罪に悩んでいるなら、知らなければなりません。イスラエルの神にこそ、救いと癒しがあることを。



 



5.アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。



 



この時、ナアマンはアラムの金銀と晴れ着を持って出掛けました。この金銀と晴れ着はエリシャから拒否されました。このことに関するたとえも大事なことを我々に語ります。



 



7.イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」



 



さて、このナアマンの病が直ることに関して、イスラエルの王とエリシャの見解は異なります。イスラエルの王は、自分は神でないので、それはできない、と言うのです。今のイスラエル、カトリックの王、ローマ法皇の見解も同じようなものでしょう。カトリックを通して、罪からの解放などあり得ない、そんなところがこの教会のトップの本音でしょう。



 



8.神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」



 



神の人エリシャの見解は、しかし、異なります。この国にはらい病を癒す神がおられること、また、この国には預言者がいることを彼は語ったのです。



 



ですから今のカトリックも、求めるなら、この罪、らい病からの解放はあり得るのです。



 



9.こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。



10.エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。



 



ここでエリシャはナアマン、勇士であるが、しかし、らい病を患っている人物に対して、それから癒されるために、きよくなるために、ヨルダン川で七たび身を浸すことを語ります。



 



これは、直接的にはナアマンに対して語られた言葉ですが、しかし、聖書のことばはもちろん、現代の我々に対しても語られた言葉なので、これは全て、主の前に信仰の勇士ではあるが、しかし、らい病、罪を密かに患っている人への福音なのです。



 



「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」



 



このことの意味合いは何でしょう。ヨルダン川はバプテスマのヨハネが洗礼、バプテスマを授けたところです。バプテスマの意味合いはしみとおる、という意味合いです。ですから、ここで言われているのは、聖霊に浸される、しみとおる、ということです。



 



7度ですから、一回や二回ではなく、七回、完全に聖霊に浸され、しみとおることが語られているのです。



 



そして、それが私たちのらい病、隠れた罪を癒し、きよめる唯一の方法なのです。



 



聖霊に浸される?具体的にはどうすればよいのでしょうか?具体的には祈ることです。



 



祈りの中で聖霊により、バプテスマ、浸されることです。七度と書いてあるのですから、一度や二度ではなく、七回は祈り、聖霊に触れ、浸され、癒されていく、その罪のらい病は消えていく、そのことがここでは描かれているのです。このことを捉えましょう。



 



終末における主の御心をおこないましょう。



 



-以上-