サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 



第69章 勇士ナアマンのらい病(2)



 



~聖霊に浸される時、私たちのらい病、罪におかされている体もきよくなる~



 



【テキスト】Ⅱ列王記5:1119



11.しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。



12.ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。



13.そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」



14.そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。



15.そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」



16.神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。



17.そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。



18.主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」



19.エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。

 



本日は、「勇士ナアマンのらい病(2)」として、この件をさらにみていきたいと思います。



 



テキストに沿ってみます。



 



11.しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。



12.ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。



 



さて、ナアマンはこのエリシャのことばに怒りました。そして、「ダマスコ(荒布を織るものは、沈黙する)の川、アマナ(助け)やパルパル(早い)は、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。」と言いました。このことばには隠れた意味合いがあります。



 



彼はアラムの将軍であり、自分のところの川が良い、ダマスコの川の方がよい、と言っているのです。アラムの原語の意味合いは、高められた(exalted)という意味です。このことのたとえの意味合いは何でしょう?言わんとしていることは、自分は高められた存在である、修行がある、功徳がある、そんなことでしょうか。ダマスコの原語の意味合いは、「荒布を織るものは沈黙する」であり、沈黙の行、荒布を着た悔い改めの歩み、謙遜の歩みなどが想像されます。



 



ですから、「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。」とナアマンが言う時、言わんとしていることは、イスラエルの神の言うことより、我々、敬虔な者たちが行う、沈黙の行、謙遜な歩み、悔い改めの歩み、これらの方が優っているではないか、ということです。また、ここでは川について語られていますから、すなわちこれらの謙遜な歩みを語る霊に従っていった方が優っているのではないか、と語っているわけなのです。



 



13.そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」



 



「もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。」とのことばは象徴的です。行い主義、敬虔主義が我々に求めることは何か難しいこと、偉大なこと、達成困難な事柄だからです。



 



あるカトリックの人々は巡礼をします。単に巡礼するのではなく、膝で歩いて巡礼するのです。膝で巡礼するなら、岩の多い地を膝で歩いて巡礼するなら、膝はむけ、血がにじみます。このようにして神に求める方法がアラム、高められた者の方法であり、ダマスコ、荒布を織るものは沈黙する、という方法なのです。



 



カトリックはこのアラムに占領されており、このアラム、高められる、修行の方法を大いに取り入れており、結果、多くの人々は果てしのない行い、到達できない、高みを目指しています。神父は、結婚できないことになっており、高みを目指さざるを得ない、超人的な修行の歩みを期待されているのです。



 



そして、不思議なことがあります。そのようにできないこと、難しいこと、超人的なことをいつも要求されている人々には、簡単なこと、単純な方法は、かえって受け入れがたいのです。



 



彼らには単純なキリストを信じ、受け入れるということを理解できず、また、単純な祈りの中で、聖霊を受けいれる、という方法は認めがたいのです。しかし、聖書で神が求めておられることは単純な方法であり、行いではなく、信仰による義です。



 



『身を洗って、きよくなりなさい。』



 



非常に単純なことが書かれています。体が汚れている、らい病に汚されている、罪に汚されている、そのナアマンに対して、ただ、川で身を洗ってきよくなることが書かれているのです。このことは単純かつ簡単です。まるで、野球をして汚れた少年の服を洗うように、簡単なことなのです。



 



同じように、私たちがらい病に侵されている、隠れた罪に侵されている、そのような問題があった時も、その解決方法も簡単です。要は水で洗うこと、聖霊の水で、罪を洗ってもらうこと、それが唯一のしかし、もっとも効果的な解決方法なのです。



 



具体的には祈り、その中で、聖霊の水に触れることなのです。



 



14.そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。



 



さて、ナアマンはこの時、はじめて言われた通り、ヨルダン川に七たび身を浸しました。結果、彼は、きよくなりました。らい病に侵されていた、彼の体はきよくなったのです。



 



ヨルダン川はバプテスマのヨハネが洗礼を授けていた場所です。ですから、ここで言われていることは、バプテスマ、具体的には聖霊に浸されることなのです。聖霊に浸され、その結果、私たちのらい病、罪におかされている体もきよくなる、それがこの箇所のメッセージなのです。



 



「ヨルダン川に七たび身を浸した」



 



ヨルダン川に一度でなく、七たび身を浸すことにポイントがあります。聖霊に一度と言わず、七たび、完全に浸されること、具体的には祈りの中で、まったく聖霊に浸されることが大事なのです。



 



15.そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」



16.神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。



 



なぜ、エリシャはナアマンからの申し出を断ったのでしょう?これは謎です。私たちが同じ立場だったらどうでしょうか?



 



ナアマンからの金銀、服の申し出を断るでしょうか?



 



おそらく、ほとんどの人は断らないでしょう。私だってそうです。



 



でも、聖書の原則として、このように、万人が断らないであろうことをあえて断る、このような記述の方法で、何か神が語っていることがあるのです。わざわざそうすることにより、何か語っていることがあるのです。



 



ナアマンがお礼の品をエリシャに渡した。エリシャはそれを喜んで受け取った、そして二人は別れた。そう書いてあるなら、特別な記述でも目を引く記述でもないので、私たちの目はとまりません。



 



しかし、あえて、ふつうは断らないであろう金銀をエリシャが断ることにより、我々の目は引かれます。このことにより、語られていることがあるのです。



 



ここで語られていることは何でしょう?それは、アラム、ダマスコの金銀をイスラエル、神の民は受け入れるべきではない、という教えです。金銀は信仰に関することばであり、ことは信仰に関することなのです。アラム、高められる、修行主義、また、ダマスコ、沈黙、荒布、謙遜の歩み、これらの敬虔主義、ピエタイズムによって歩むこと、その信仰、金銀をエリシャは拒否しました。すなわち神御自身はこのような敬虔主義によって、真の神に達することはない、そう語っているのです。



 



ですから、私たちのこれらの敬虔主義に体する態度、対応も同じもの、聖書の原則に沿った者であるべきです。この金銀を受け入れる、この信仰を受け入れるべきではないのです。



 



17.そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。



 



彼、ナアマンの態度、「しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから」との態度は正しいです。



 



多くのカトリックの人々、聖人礼拝やら、マザー・テレサなんかを崇めている人々は見習うべきです。これらの聖人でなく、真の神を崇めるべきなのです。



 



18.主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」



19.エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。



 



リモンは風や雨の神です。霊的なことのたとえです。どんな礼拝にも霊が関わってきます。真の神を礼拝するなら、正しい道に導かれるでしょうが、おかしな霊に導かれるとおかしな結論に至ります。



 



霊が大事なのです。



 



終末における主の御心をおこないましょう。



 



-以上-