サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

 

エキュメニカル、教会統一運動の罠

 

 

 現在、世界中で進んでいる「エキュメニカル運動」には、「隠れた意味合い」と「目的」があります。この運動は、「世界中の教会を一つに統合、統一しよう」というものです。「兄弟達が和合すること」「カソリック、プロテスタント教会が手を結ぶこと」は、すばらしいことのように見えますが、聖書の神はそのようなことを推奨、奨励をまったくしていません。

 

 

 聖書を一読すればわかることですが、聖書の神は「汚れたものに触れるな」と語り、アモン、モアブ等の異邦の民、また、偶像崇拝の北イスラエル等との連盟、合一を「御心の民」ユダに禁じています。

 

 

 彼ら、エキュメニカル運動を進める人々の目的は、カソリックとプロテスタントを統一することにより、偽りの霊である「マリヤ崇拝」「法皇崇拝」「聖人崇拝」「外典」を受け入れる等のカソリックにおけるあらゆる偽り、誤りを「プロテスタントにおける最後迄忠実な小数の残りの者」に受け入れさせることにあります。

 

 

 この運動の「隠れた目的、歴史」を以下の一文は、明らかにしています。この教会統一、エキュメニカル運動が用意周到に少しずつ準備されたものであることがわかるでしょう。

 

 

背教の基礎:1950-1985

 

背教と2000年カンファランス

 

我々はどのようにして今日に至ったか。

 

 

 1940-50年代においては、その後に続く何十年間の間に教会の構造をその内部まで揺れ動かすような運動のその基礎が築かれた。この記事においては過去50年間において教会に背教をもたらし、ニューエイジのキリストへと至る道を用意した過程を検証する。まず、1940年代から始めたい。

 

 

 40年代:この10年間の事柄として2つだけ言及したい。1つは人に関すること、もう1つは組織に関することである。

 

 

 ディビッド・デュプランシス:1947年にスイス、チューリッヒにおいて、最初の世界ペンテコステ・カンファレンスがもたれた。このカンファレンスは、ミスター・ペンテコステとして有名なディビッド・デュプランシスをもたらし、彼は、さらに他の3つのカンファランスを持つようになる。

 

 

 デュプランシスは、最初の6つのWCC集会の一つに参加した。

 

 

. 人は教派間における兄弟同胞を認識するべき義務があり、全ての教会を似たものとして認識すべきである。

 

 

. キリストが全ての世界のためであり、生活の全ての面のためであるという主張のため、世界規模の一致という考えを紹介した。

 

 

. 神の王国は地上に設立される、との考えを光にあてた。

 

 

 デュプランシスが、WCCの集まりに加わるということは、ただ一度のことではない。彼の本や講義において、彼はWCCの「クリスチャン一致のための祈りの週」を推進した。

 

 

 そのテーマは、「宇宙的教会の一致における地方の集まりの一致」である。集会8日目の彼の祈りの勧めは以下の通りです。

 

 

 「皆さんが祈り、思い起こさなければならないのは、自分がキリストの体である教会の一員であり、そして教派、告白する同盟、地方及び国家的教会の、特にWCCへの“一致を顕現する必要を反映することが大事なのである。」

 

 

 デュプランシスは、ペンテコステ経験の見張り犬であった。彼は言う、1900-1908年の間、歴史的なプロテスタント教会は、ペンテコステリバイバルと戦い、これは悪魔から来ていると言ったと。しかし、1950-1958年においては、様相が様変わりし、プロテスタントの態度は変化した。デュプランシスは言う、1961年まで「私は、変化の結果を見る、そして教会内におけるペンテコステリバイバルは、力とスピードを結集していると宣言できる。」

 

 

 1963年迄、デュプランシスは、ペンテステ的経験を45の国々において、説教した。彼は、ペンテコステ派におけるエキュメニカル運動の主要な働き手であり、ローマと世界ペンテコステとの間のかけ橋であった。彼の本「霊が私に行けといわれる」において彼は、彼の神からの召しに関して、「ペンテコステ運動間の、よりよい理解とより近い協調、そして全てのキリスト教会の階層にペンテコステ的メッセージと祝福をもたらすために召された」と述べている。

 

 

40年代:カナダにおける「後の雨」運動。結果として、教会全体の方向に影響を与えるような異なる種が植えられた。ジョージ&アーネスト・ハウティン、及びジョージ・ウォーノックは、後に「後の雨運動」として知られる運動の初期の指導者となった。後の雨運動は、人は神の完成を達成するには、特別な知識、もしくはグノーシスを持たなければならないと信じている。この「グノーシス」を達成した者達は、真の種となり、彼等は世界への進出をもたらし地上にキリストの王国をもたらす。

 

 

50年代:顕現した息子、ウィリアム・ブランハムは「後の雨運動」を合衆国にもたらし、そしてその過程において、それは新しい名前を持った、「神の顕現された息子達」。

 

      (ウィリアム・ブランハン)

 

顕現された息子達の主なる浸透場所は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドであるが、同教団は最終的にこの教義を異端であると判断した。

 

 

50年代:FGBFI

 

 

 さらに50年代において、デモス・シャカリアンは超教派的なFull Gospel Businessmens Fellowship International(FGBF)を50の国々で、設立した。この運動は、フロリダ、オルランドのペンテコステの世界コンベンションにより「小さな教義上の点を無視して」応援された。カソリックのジェームス・ベラルーシ神父は、この妥協に以下のように水をさしている。「兄弟姉妹、私は申し上げたい。眠れる巨人ローマが生き返るなら、世界を注視しましょう。特に世界をイエス・キリストに勝ち取るために、共同で働くその日、その時代に関して。」

 

 

 これらの言葉は、教会間において、エキュメニカル運動が始まる例である。このエキュメニズムは、共同で世界宣教に向かうための努力のため、必要な動きであるとして結果として教義の大きな部分を外すことになる。結果として、後の雨運動の預言者の「新しい啓示」への道備えとなる。

 

 

 Full Gospel fellowshipは、いくつもの私が言及できる組織の単なる一つである。現時点における重要なポイントは、このグループや他のグループは、各教派間の壁を急激に破壊する状況を次の10年間で、もたらすということである。

 

 

60年代:第2バチカン会議:新しいペンテコステ

 

 

 60年代において、個々のクリスチャンの心に大きな教理の破壊をもたらした。

 

 

 エキュメニカルな第2バチカン会議(1962-1965)において、カソリック教会は、「世界教会の新しい時代」に突入したとの告知があった。我々は今、この会議にディビッド・デュプランシス及び他のプロテスタントのオブザーバーが出席したということは、すなわち世界教会において、カソリックの支配を念頭におくエキュメニカルが、大きな位置を占めることを意味するのを見る。

 

 

 教皇ヨハネ23世は、バチカン会議のために以下のようなことばで祈った。

 

 

 「この我らの日に、新しいペンテコステによりあなたの不思議を新しくして下さい。」

 

 

 そして、1966年に法皇の祈りは答えられた。カリスマリニューワルがカソリック教会において始まったのである。

 

 

 この新しいペンテコステの出来事は、その時の多くの本に書かれている。

 

 

 エドワード・D・O・コナー神父は、彼の本「ペンテコステ運動」の中で書いている「新しいペンテコステの火は、一人の人から他の人へと、跳ねるように、そしてそれは国中に広がっていった」

 

 

 この時は、教派の壁が大変なスピードで崩れ始めた時である。ジョン・マッカーサー「ザ:カリスマ」によると「1960年代において、ペンテコステ主義は、聖公会のデニス・ベネットが、彼の言う聖霊のバプテスマ及び異言の賜物を受けた時、教派主義を排し始めた。その後、ジョン・シェリルの言うには、「壁が崩れ落ちた」。カリスマ運動は、聖公会、メソジスト、バプテスト、ルター派という主流教派に広がった。

 

 

 ケビン・ラナグハンは、このように書いた。「聖霊が我らを導くので、カリスマリニューワルを通して、神はかつて決していやされることのなかったキリストの体の傷をいやされる。

 

 

 分離の壁が長い間人々を分けていた、それが聖霊の働きを通して、今、こわれ始めている恐れ、疑問、無視及び憎しみは活力あるかつ新鮮な風により、消え去りつつある。」

 

 

 新しくカソリック、プロテスタント間で見出された領域は、我々が経験しつつあるリニューワルのあまり重要ではない面である、大部分の聖霊のバプテスマを受けているローマ・カソリック信者は、続けてプロテスタント、ペンテコステ信者からキリストにある兄弟姉妹として相互愛と受容を受けることができるというのは、決して誇張ではない。」

 

 

 「ほぼ全ての祈りのグループにおいて、そしてリニューワル、カンファレンス、カソリック・カリスマの祈りグループの下において行われる特別な集会における全ての日において、そこに古典的なペンテコステ的な人々を見出すことができる」

 

 

 ジョン・カーディナル・スエネンスは、彼の「新しいペンテコステ?」という本で書いている。「我々が自分の目で見ていることは教会の歴史の中でかつて起きたことのない覚せいである思われる」

 

 

 スエネンスは、さらにこの大変重要なことばを述べている。

 

 

 「クリスチャン間の一致への動きは戻ることができないもののようだ。我々はその時は、決して遠くないということを希望することができる。最初の千年期はいくつかの例外を除き、分けられることのない教会の時代であった。次の千年期は、1054年から現在に至る迄教会は引き裂かれてきた。我々は神により据えられた望み、神学の発達により、3番目の千年期は完全な一致と完全な統合の回復を見ることができるとの自信を持つことができる。これはまさに現在我々が見ている状況である。」

 

 

 ディビッド・デュプランシス及びシャカリアンのFGBFのような組織、及び超教派的な祈り会の努力を通して、カソリック・カリスマ、エキュメニカル、教派解消主義者が、共に安全に集まっても、問題とはならない状況が提供された。

 

 

 それは議論を生み出す個々の教えは横に置き、そして他の教団に関する否定的な話は控えるという人から人への用意の中で行われた。議論を呼ぶ、また分裂を誘う教えは「それぞれの証」、そして神の教会へのより深い召し、すなわち一致にとって変わられた。一致は、共通の経験を通して来る。

 

 

 この成長と一種の協調は、徐々に個々のクリスチャンの教派的心情を壊し始めるのに十分強いものになっていく。種々なプロテスタント教派及びカソリック教会からのリニューワル専門家はエキュメニズムのルーツを堅固なものとするため今、集っている。このような戦略集会は、自然に個人レベルからキリスト教組織への成長へとのさらに深い一致へと導く。

 

 

60年代:ウィリアム・ブランハムの「神の顕現された息子」運動は、初期において拒絶されたが、そのルーツは破壊されたわけではない。この期間の間、このエキュメニズムは建設されており、ルーツはそのまま残り、結果として60年代後半にコロラドのホームサーキットチャーチに現れた。

 

 

 この運動は、また新しい名前を付けた:男の子会衆。男の子会衆のメンバーが期待していることは、黙示録12章の男の子、集合のキリストとなる人々、地上における代表権威の霊的顕現である。

 

 

 彼らはそれぞれの教会がこの権威に従うことにより、神がこの世の政府を打ち倒し、彼の千年の統治を設立すると信じている。この霊的権威の成長はこの期間、牧会運動により援助されており、この運動はその教派への忠誠をカリスマリーダーへの従順により、軽減した。

 

 

 牧会運動は牧者の恵みとして群れを置いた。エキュメニズムは教派の垣根を取り除いたが、しかし新しい垣根はカリスマリニューワルの中で従順の教えと名付けられ、据え付けられた。後の雨運動を根とするぶどうの木は、ポールカインのヨエルの軍隊を形成するべく整え、訓練された。ヨエルの軍隊とは、教会へ来る前に来られるキリストの群集としての受肉である。

 

 

 この期間、後の雨運動からさらに生み出されたものは、「預言者」と、その「新しい啓示」である。これらは新しく形成されたカンザスシティフェローシップのカリスマ分野から入ってきた。

 

 

70年代:60年代においては個々のクリスチャンの心に一致の感覚を生まれさせたが、70年代においては競争心のない霊で、共同で大きなエキュメニカル集会にクリスチャンが共に集まり、分かち合う時となった。この10年間における出来事は独立により、教派を壊すことに更に貢献した。1970年代においては3つの大きな出来事が、カソリック、プロテスタント主流、カリスマ、ペンテコステが一致の感覚でさらに組み合わされることを助けるようになった。

 

 

.始めに、ビリー・グラハムが世界中のクリスチャンに大きな影響を与え、真のエキュメニズムへの貢献により国際フランシスコ賞を受賞した。

 

         (ビリー・グラハム)

 

 

.2つめの出来事は、ペンテコステの癒しの働き人、キャサリン・クールマンとパウロ法皇との会見である。会見の後、彼女は、「私が法皇パウロと会った時、そこに一致があった」と言った。この一致は彼女の死に至るまで、彼女の超教派的いやしの奉仕を通して実践された。

 

 

      (キャサリン・クールマン)

 

.3つめの大きな出来事は、ノートルダム大学において行われたカリスマカソリックと福音派の最初の国際大衆ラリー、プネウマ72である。

 

 

 これらの3つの出来事は、教派間の壁に大きな裂け目を生じさせ、ぶどうからの一撃はプロテスタント教会の通路に花を咲かせ始めた。

 

 

70年代:共同伝道

 

 

 70年代の始めに突然、エキュメニズムに新しい面が加わった。共同の伝道会を設立するために、会合が持たれ、合意文書がなされた。1973年、ディビッド・デュプランシスの大きな業績と評価されていることだが、福音派とローマ・カソリック僧はともに共同宣教の北アメリカクルセードを形成するために、手をつないだ。

 

 

 同じ年にビル・ブライトは、ローマ・カソリック、オーソドックス、エキュメニスト、福音派、及びカリスマ派が一致する「キー73プログラム」を推奨した。

 

         (ビル・ブライト)

 

 

1年後、世界宣教のためのローザンヌ運動が、ビリー・グラハムにより設立された。2,700の福音派がスイスで集会を持ち、世界を宣教することにより、大宣教命令を達成するための契約の原稿を書くために集まった。

 

 

 自発的なネットワークと規定され、目指すものは、「教会やグループを力づけ、完全な福音を完全な教会を通して全世界にもたらす。それを競争ではなく、共同と分かち合いの霊を通して成し遂げる。」

 

 

 60年代において個々に形づくられた、競争を排した共同と分かち合いの精神は、今集団の顕現へと進化したのである。1975年にデュプランシスは、国の全ての家族のエキュメニシティ以下のものでは、満足しないと告げた。

 

 

 霊的なリニューワルは、カリスマ的であり、かつエキュメニカル、すなわちカソリック教会と一致するものとなる。1976年にデュプランシスは、パックスクリスティ賞、「彼のカソリック教会世界における高い評判の証拠」を受けた。メッセージは明白になってきた。多くの実がローマと教派との一致を通してもたらされてくる、そしてこの一致は、深刻に求められた。

 

 

70年代:カンサスシテイカリスマカンフエランス

 

 

 エキュメニカルの非競的である「共同と分かち合いの霊」が、エキュメニカル・ラリーがカンサス市において1977年にもたれた時、明らかになった。

 

 

 これは、カリスマリニューワルに、内の3つの伝統的教派からのクリスチャンが共に一致した、最初の国際カンファランスである。

 

 

 ジェームス・ベトラルシーやフランシス・マクナット神父達と共に、多くの異なる教派のバックグラウンドを持つ50,000人のクリスチャンが会合した。種々のリニューワルサービスコミッティーからのカソリック・カリスマ派、長老派、ペンテコステホーリネス、ルター派、メノナイト、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、メソジスト、南バプテスト等の教派の人々がそこにいた。

 

 

 ディビッド・デュプランシスの語った「全てが共に、カリスマとエキュメニカル」がカンファランスのエッセンスをつかんだ。「ニューコベナント」誌の編集員、ベルト・ギャジーはこれを歴史的な集まりと評し、1977年10月号において、編集記に以下のように記した。この「カンファランスは、カリスマリニューワルにおける3つの伝統的な教派、クラシカルペンテコステ、ネオペンテコステ、カソリックペンテコステからのクリスチャンを初めて共に一つにしたものである。この歴史的集まりは、1974年のカソリックカリスマリニューワルのカンファランスにおいて、主が直接語られたことばに対しての最初の回答である。その時、主は3つの流れを一つにまとめることへの希望を語られた。全てのクリスチャンへの希望のしるしである。主は、我々全てに分派の壁を超え、更に高いゴール“全てのキリスト教の合一”へ達するようにと積極的に働き、祈るよう招いておられる。」

 

 

70年代:ヨハネパウロ2世

 

 

 更に70年代において、法皇ヨハネパウロ2世が選ばれた。彼は、「彼は彼の支配的な立場を認識している」と語る。2000年は、「偉大なヨベルの年」になるであろうと宣言した。我々はこのヨベルの年の重要さを後ほど見る。

 

      (ヨハネ・パウロ2世)

 

 

70年代:新しいプロテスタントの改革

 

 

 1979年の書籍、「現れたオーダー」において、ニューエイジの著者ジェレミー・レフキンは書く、「我々は2度目のプロテスタント改革の早い段階にいる。カリスマは、一方で潜在的な自由化の衝撃を生み出すが、神学教条の必要な再構築をもたらすための更なる主流派の福音的な運動が始まりつつある。それは新しい契約のビジョンと世界観を創造するには必須である。もし、カリスマ及び福音派系の新しいクリスチャンリニューワル運動が共に集まり、社会への新しい契約の幻の解放エネルギーと共に結び合わされるなら、偉大な宗教的覚せいを起すことが可能である、それは2つめのプロテスタント改革を引き起こすのに十分な潜在的な力がある、それが現在からAD2000年迄に現れるだろう。」

 

 

リフキンの予測は次の10年間に実現してくる。

 

 

80年代:80年代は、過去20年間の間、破壊された教派及び教派の個人が一つにされた体、団体にともに連なっていく時であった。大きな超教派的な集まりが普通になった。そのような集まりの一つは70万人もの参加者を持った。

 

カソリック、主流プロテスタント教派及び独立教会はワシントンにおけるジーザスラリーで、ジョン・ミアース、ビル・ブライト、ジェームス・ロビンソン、ジム・ベーカーらがカソリック神父ランドヒル、ベルタリッチと共にマイクを分け合うことにより、壁を打ち壊した。

 

 

 他の大きな集まりは、「ジーザス81ラリー」ビリー・グラハム国際大会「アムステルダム83」であり、パット・ロバートソン、ロバート・シューラー、パウロ・チョー・ヨンギ、ビル・ブライト及び他の出席者があった。カリスママガジンはこの集会をレポートして、「世界の指導的福音派(すなわちビリー・グラハム)からの態度と用語のシフト」と語っている。

 

     (パウロ・チョーヨンギ)

 

 

80年代:リバイバルにおける提携 

 

 1984年春、再建主義者ジェイ・グリムステッドは「リバイバル上の提携」(COR)を開始し、そして、その112名のメンバー指導会は、CORの歴史的クリスチャン教義42の記事の最初の原稿を作成した。CORは教会の考えを地上に神の王国を建てあげるという方向に向けるのに大きな影響を与えた。  

3度目の大会におけるCOR文書は述べる 

 

 「リバイバル上の提携」はキリストの体において「天においてみこころがなされるように地においてもなされる」ため一致を助け、リーダーシップを働かせるために存在するように召されている。CORの42の項目が17の世界的な面の文書の神学的な基礎を形成するために使用された、その書類にはCORが法律、政府、経済、教育、メディア、芸術、科学、医療及び宣教や弟子化のようないくつかの働きの面に関して何を基本的な聖書原則として信じるかが記されている。 

 

 言及すべき大事なことは洗礼、再臨は42の項目から外されていたということである。この排除と論争しないという態度は、前千年王国主義者から、後千年王国主義者までの視点迄、多くの人々を導くために大きく貢献した。OCR指導会の文書は、「イエス・キリストの教会は、今、ぬるま湯的になり、あがないの働き人としての働きと間違いを正す者としての預言的権威を追うことから、無縁になってきている、教会の関心は天に更に向かっており、将来、キリストの再臨の時、この世から逃れることに向かっている。」と心配している。  

 

 我々の希望はキリストが戻って来られることのみにあることを明白にする代わりに、CORは全てのクリスチャンが一致の努力により、神の王国を天から引き降ろすことを助けるよう導いた。キリストにある真の希望は、神の祝福により我々が王国を建設できるとの希望に変えられていった。

 

 CORの文書は、2000年にわたる全ての異なる教派の教理を総轄した。その上でCORは、この総轄は、ほぼ全ての教理的立場、教派、組織の高位の人々から喜んで受け入れられたという。創設者ジエイ・グリムステッドは、世界中のカソリック、プロテスタント神学者、教会、大学、及び組織は彼等の信仰信条を作成するためにこれを使用するという。COR指導会は42項目を1984年8月に批推した。

 

 メインスピーカーであるキャンパスクルセードフォークライストのビル・ブライトは「大宣教命令と我らの地球的ミッシヨンの働き」について語った。42項目が皆から受け入れられたことは、1994年の北米プロテスタント教会会議と「かつて想像できなかったこのような世界レベルの教理的一致」への道を開いた。「このような教理的一致は今、必要である、なぜなら教派教会が弱くなっているからである。」

 

 教派が引き裂かれ、そして統一教会へと再結成されただけでなく、更に教理もまた、同じ運命を辿る。キリストの再臨に関する教理はもっとも大きな破壊を受けた、なぜなら新しい世界的視点が立てあげられ、それが統一教会の大きな一部として受け入れられたからである。