サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

 

アナテマ(呪い)

 

 

メアリー・アン・コリンズ(元カトリック修道女)

 

 

www.Catholic Concerns.com

 

 

2002年11月配布(02年1月版改訂)

 

 

 1913年版カトリック百科事典によると、カトリック教会が、誰かをアナテマ(呪うこと)するとき、ローマ教皇はなんと、アナテマされる者に対し、儀式を行い、呪いをかける。これらを執りおこなうための、厳粛な成文化された儀式が存在する。カトリック百科事典内には、広範囲に引用したものを含め、その儀式に関し詳細に記してある記事を見ることができる。(この記事はウェブ上で読むことができます)[:]

 

 

 アナテマを言い渡す時、ローマ教皇は、特別な祭服を着用する。明かりを灯したろうそくを持った12人の司祭が教皇の手助けをする。神の御名を呼ばわりながら、ローマ教皇は厳粛かつ聖なる呪い(呪文のことか)を唱える。教皇が呪文を唱え、アナテマされた者は、サタンと共に地獄へ落ちよと宣言することにより終了する。そこで司祭は(そのようになれと)「命令する」と答え、ろうそくを投げ落とす。

 

 

 このように、カトリック教会は、(カトリックの教理に異を唱えることは)異端であり、罪であると考えている。トレント公会議やその他の公会議で、カトリックの教義上の声明に、たった一つでも異を唱えるものは、誰であろうと、それによってアナテマされると宣言されている。

 

 

 教皇がアナテマを言い渡す時、罪人に関する成文の箇所を述べると言われている。カトリック百科事典によれば、アナテマの儀式は「罪人」を脅かすために、故意に計画されており、そのような者を悔い改めに至らせると言われている。(言い換えるならば、カトリック教会に対し無条件降伏をするようなものだ。)

 

 

 犯した罪が異端とされた者にとって、その悔い改めは、カトリックの教義に対する矛盾を指摘し続けてきたもの全部の放棄を意味する。言い換えるならば、自分自身の良心や識別力、そして、やっとの思いで、たどり着いた聖書的原則という結論を放棄せざるを得ない。そして無条件に自分自身の心と意思を、カトリック教会のすべての公式な教理的宣言に捧げなければならない。このように、聖典法によると、このような個人的な心と意思は、ローマ・カトリック教会に対し、絶対服従でなければならないとされる。

 

 

マインドコントロール

 

 

 カトリック百科事典によると、人間の宗教的確信は「自由な個人的判断の領域外」にあるとする。このことは、アナテマされた人々の背後にある精神性となんら矛盾するものではない。(これらのことは、ウェブ上で読むことができます。)[:]

 

 

 新しい「聖典法に関する法典」が1983年にヨハネ・パウロ2世の権威をもって発表された。それは、第二バチカン公会議(1962~1965)において霊感を受けた事柄、及び教会の刷新を具体的な形にしようという要求を満たすものである。聖典752(章?)によれば、教皇、もしくは神学校が、信仰または道徳に関する声明を出した時は、いつ、いかなる時も「キリスト教徒」は、自分の知性や考えを捨ててでも、それに従わなければならないとされる。さらに、そのことに異を唱えることは、どんなことがあっても、あってはならないとある。(新しいCode of Canon Lawは、ウェブ上で閲覧できます。自分自身の目でこの律法を読めます。)[:]

 

           (ヨハネ・パウロ2世)

 

 

そういうわけで、信徒たるクリスチャンが、カトリックの教理に対し、疑いを持ったり、否定したり、論争したりすることは、ローマ・カトリック聖典法に、たてをつくことになる。律法に反することは許されないことであり、そのとき、律法に反する罪を犯した人は、罪人とされてしまう。聖典法には、そのような罪人に対しての罰則規定まであるのだ。

 

 

強要

 

 

 聖典1311(章?)によれば、カトリック教会には、反抗的な態度を取る信徒に対し聖典法を強要する権利すらあるのだ。聖典1312章には、刑罰的制裁をもって、そのような人々から霊的なもの(聖餐式のようなもの)や、この世的なもの(地上で生活していくにあたり必要なもの)を奪うことすらできるとある。宗教改革の時代、カトリック教会はプロテスタントに対し、彼らの財産や、彼らの自由、そして命を奪うことによって、彼らを罰したものだ。(注:4)

 

 

 霊的なものとは、天国に入るにあたり必要なものだ。カトリック教会は、破門とアナテマによって、それらの人々から霊的な必要を奪うことができると信じている。この世的なものとは、物質世界で生活していくにあたり、必要なものを言う。それは、財産のようなものであったり、または自由、時には権利章典によってアメリカ人を保証する自由であったりする。

 

 

 カトリック教会は、過去の忌まわしい異端者の殺害という儀式を捨て去ってはいない。それどころか、異端審問所は、今なお存在するのだ。それはローマ教皇庁の役割とされる(カトリック教会を牛耳る雲の上の連中である)。1965年、「信仰教理における集会」と名称変更がなされた。そのトップは、ラツィンガー枢機卿である。(注:5)

 

 

 1854年12月8日、教皇ピウス9世は、聖母マリアの処女受胎に関する教義を宣言した。教義を明らかにした後、教皇が宣言したことに、あえて、異議を唱える者がいるなら、その者の信仰は、破滅するであろうし、教会から切り捨てられるであろうと教皇は発言した。そのような人々は、責められるべきだと教皇は宣言した。もし、その者の考えにおいて、教皇が言ったことに「間違い」があると言ったり、書いたり、他の方法で表現するならば、その人は罰せられるべきであると発言したのだ。(このことは、ウェブ上で閲覧できます。)[:]

 

             (教皇ピウス9世)

 

 

教皇のこの処罰に対する言及は重大である。なぜならば、この教皇の教書が発布される28年前に、ある人物が異端の罪で死刑に処せられたからだ。1826年、スペインのある学校の校長が、学校での礼拝中に“Ave Maria”(“Hail Mary”)というところを“Praise be to God”と言葉を置き換えたがために、絞首刑に処せられた経緯があるのだ。(注:7)

 

 

 1950年11月1日、教皇ピウス12世は、聖母マリアの被昇天の祭日に関する教義を明らかにした教皇の教書を発布した。誰であろうと、彼の宣誓に反抗したり、逆のことを言ったりすることは、許されないと言って演説を終えている。その上教皇は、そのようなことをしようとする者は、それゆえ、神の激しい怒りと使徒ペテロと使徒パウロの激しい怒りを受けるだろうと宣言した。(このことは、ウェブ上で読めます)[:]

 

           (教皇ピウス12世)

 

 

この教皇の教書は、公然と処罰をもって脅迫するものではないが、なんらかの形での処罰の可能性を暗示している。1854年の教書と1950年の教書の色彩的相違は、カトリック教会の力が弱くなったことを反映している。最近の事例としては、1854年にある人物が、異端を言い渡され死刑に処せられている。1950年になると、ローマ・カトリック教会の政治的力は、だいぶ弱まっている。1950年までに、1854年の教書で使われているその種の言語は、カトリック教会に対し、なんら良いイメージを築き上げるものではなかったのだ。  

 

結論 

 

 ローマ・カトリック教会は、教皇には人々を地獄へ落とす力と権威があると信じている。アナテマの儀式はこの信仰を証明するものである。  

 

 多くのカトリック教徒は、神だけが地獄へ落とすことができると言っては、このことを否定する。しかし、カトリック百科事典に述べられているアナテマの儀式をご覧下さい。そして次のような教皇インノセント3世が宣告した破門の厳粛なる宣言をご覧下さい。  

 

「我々はあなたを破門し、アナテマし、呪っては地獄に落とす」と[:]

 

 アナテマの儀式とその言い回しは、教皇が人々を地獄へと導くことができると信じていたところにある。アナテマの怖いところは、他の人までこのことを信じてしまっていることだ。そういうわけで、アナテマが教皇に与える力というものは、市民の統治という領域を逸脱してしまっているのだ。(霊的強要という記事をご覧下さい)  

 

この記事の使用について 

 

 さあ、勇気を出してこの記事をあなたのウェブサイトに載せるか、リンクを張ってください。勇気を出してこの記事を引用したり、コピーしたり、この記事のコピーを配布してください。勇気を出してこのことを外国語に翻訳し、その外国語のコピーを配布してください。この記事のコピーを売ってもかまいません。ロイヤリティー等、いかなる種類の経済的報酬も不要です。この記事を単独で出版しても良いのです。あなた自身の出版物に取り入れてくれても結構です。ただし次の二点は守ってください。(1)記事の内容を変えない(2)次の声明を表記すること: “Copyright 2002 by Mary Ann Collins. All rights reserved  Used by permission.”と。  

 

注釈 

 

.カトリック大百科1913年版第一巻内 “Anathema”  

 

 ウェブサイトでも閲覧可 その儀式について詳しく、長ったらしい引用といっしょに述べられています。私の文書の2,3ページを見てください  

 

http://www.newadvent.org/cathen/01455e.htm  

 

.カトリック百科事典第8巻1910年版(オンライン版2002)内 “Inquisition”第2節から引用  

 

 異端審問所とは、異端を摘発する教会の制度である。それはローマにある恒久的な総司令部である。(私の文書の1、23~24ページに書いてあります)このアドレスに、うまくたどり着けない時は、次の語句を組み合わせて検索してみてください“Inquisition + Catholic Encyclopedia”この記事をロードするには少しばかり時間が、かかります。まず、真っ白なページが表示されます。続いてテキストが突如として現れます。 

 

 そこの記事を見ると、モーセの律法のもとで、旧約時代の民は異端であるとして殺されたか、拷問にかけられたとある。だが、それは正しくはない。イスラエルの神を捨てて、異国の神々を拝もうとするならば、石打ちの刑にされたのだ。群集に大きな石を投げさせることは、多分、即死に近い状態に追いやったであろう。決して拷問にはならない。実用的な処刑法であったのだろう。異国の神々を拝むことは、異端にはならなかった。異端とは、洗礼を受けたクリスチャンが教理的な点において異議を唱えることを意味する。たとえば宗教改革時代、カトリック教会は、人々が信仰によってのみ救われる(信仰の他に行いも必要だという教理に反抗するかのように)と信じることは異端であるとしていたことなどが、これに当てはまる。異国の神々を拝むことは、いかなる場合でも、異端どころではないではないか。キリスト教を捨てて、ヒンズー教の神々を拝めと説いていることが、これに相当するではないか。 

 

http://www.newadvent.org/cathen/08026a.htm  

 

 宗教裁判におけるプロテスタント側の見方としては、次の二つの記事を参照してください。  

 

「宗教裁判における歴史的考察と神学、方法  

 

http://www.sundayschoolcourses.com/inq/inqcont.htm  

 

「宗教裁判:絶対的なカトリックパワーの考察」  

 

http://www.mtc.org/inquis.html 

 

http://www.la.znet.com/~bart/inquis.htm  

 

http://www.crusadeforcatholics.com/bart.htm  

 

.“code of canon law”ラテンイングリッシュ版、新英訳(ワシントンDC:Canon Law Society of America,1988)、247ページ、聖典752, 1983 “Code of Canon Law”は1988年に英訳されています。ウェブ閲覧可。次に掲げるリンクによって索引へと行きます。それから律法へとリンクします。聖典752は、ブックの始めにあります。  

 

http://www.intratext.comXENG0017.htm  

 

http://www.digilander.libero.it/gergely/cic_en.htm  

 

http://www.ourladyswarriors.org/canon/ 

 

.“Code of Canon Law”409ページ、聖典1311及び1312、これらの聖典は、ブックの始めにあります。  

 

.次に掲げるURLはバチカンのウェブサイトの記事とリンクしています。 

 

http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/cfaith/index.htm[Click on profile”.]

 

 バチカンのウェブサイトは遅くて、いつでも表示されるものではない。次のサイトを見れば、異端審問所なる名前が変わったことについての情報も発見するでしょう。

 

http://www.geocities.com/iberianinquisition/office.html

 

http://es.rice.edu/ES/humsoc/Galileo/Student_Work/Trial196/breu/timeline.html

 

http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/europe/newsid_1251000/1251677.stm

 

.“Ineffabilis Deus”(処女受胎における使徒規約)教皇ピウス9世が1854年12月8日発布した教書より。教皇教書の終わりのほうに、“The Definition”と名付けられたところがあります。私が述べたところの声明は、そこの最終節の中にあります。次の二つは、URLは、教皇教書全篇から引用したウェブサイトのリンク先です。

 

http://www.newadvent.org/docs/pi09id.htm

 

http://www.geocities.com/papalencyclicals/Pius09/p9ineff.htm

 

.ポール・ジョンソン著、「キリスト教の歴史」(ニューヨーク:サイモン&シュスター、タッチストーンブック、1995)308ページより、ポール・ジョンソン氏は、著名な歴史家であり、カトリック教徒である。

 

.“Munificentissimus Deus” (被昇天の祭日に関する教義を定義する)、47節より。教皇ピウス12世が1950年11月1日発布した教書より。ウェブ上での閲覧も可

 

http://www.geocities.com/papalencyclicals/Pius12/P12munif.htm

 

.ポール・ジョンソン、「キリスト教の歴史」199ページ

 

Copyright January 2002 by Mary Ann Collins.

 

E―Mail: MaryAnnCollins@juno.com

 

www.CatholicConcerns.com

 

(コメント)

 

 この文章は、ある読者により、翻訳いただきました。感謝。

 

 この文の著者、マリアさんは、かつてはカトリックの教えに忠実な修道女でしたが、今は正しい福音に触れ、救いにあずかった方です。救われた彼女は、カトリックの教えの誤りを糾すいくつもの文章を、web上に掲載しています。本文はそのうちの一つです。

 

 これはカトリックに反対する者、これに少しでも異義を唱える者に対して、ローマ法王はその者を呪う(アナテマ)、法王にはその権利があると理解して(誤解して)いることを明らかに示す一文です。

 

 このような呪いと恐怖と締め付けの下で、あわれなカトリック教徒は、「マリアはキリストと共同のあがない主」「法王無謬説」等、次から次へと出てくる、この教会の聖書とかけ離れたトンデモ教理、嘘つき教理を無制限に受け入れなければならない奴隷クリスチャンになっています。このカトリックという宗教は監獄宗教であり、カトリック教徒はエホバの証人と大して変わらない異端教理を教えられています。

 

 その上で、救いにはおこないが必要との教理に対して忠実、カトリックに忠実でないと天国へ入れないと教え込まれているのです。

 

 統一教会の信者は救われる必要があり、真理を知る必要があります。

 

 同じくエホバの証人の信者も救われる必要があり、真理を知る必要があるのです。

 

 幸い、このことは、多くの人々が知るようになっています。

 しかし、一つプロテスタントのクリスチャンが知らないこと、それゆえ、明確に理解すべきことがあります。

 

 それは、多くのカトリックの人々は、キリストの救いを受けていないということ、彼らは偽りと惑わしの下にいるということです。

 

 カトリックの多くの人々は、じつは、聖書とかけ離れた呪いの宗教の下にあり、彼らも救われる必要があり、真理を知る必要があるということを、です。

 

 奴隷には解放が必要であり、救いが必要です。かつての日、マルチン・ルターはこれらの「奴隷解放」の旗手として、立ち上がりました。 彼は、英雄です。

 

            (マルチン・ルター)

 

 

今、ルターの名を継いでいるルーテル派は、あろうことか、このカトリックとの一致、合同を表明しており、完全に裏切り者と化しています。こんな人々の後についていくべきではありません。(アメリカルーテル派は、ルターの名前を返上すべきではないのか)  

 

 これらの人々はともかく、しかし、主につく人々は、この教会、カトリックの人々、今も宗教奴隷として監獄教理の鎖につながれている人々に「福音」を述べ伝えることを考慮すべきだと思われます。