サマリヤの女

  カトリックへの警告!!

 

第2章 教えの罠を外す 

 

~サタンが終末の日のために、キリスト教会に仕掛けた教えの罠を外す~

 

【テキスト】

エゼキエル14:4,5

“イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃虚にいる狐のようだ。あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。

 

エゼキエル13:17,18

“人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。あなたがたはわたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。


終末の教師への警告

 

主の日と書いてあるので、これは終末に臨んでいる今の時代に関する預言です。この主の日を前にした預言者たちは成すべき働きを成していない、その結果、教会は終末に備えて当然成すべき備えができないということを警告、預言しているのです。ここに預言者ということばが使われています。“全ての預言者が預言したのはバプテスマのヨハネの時までと書いてあるように、旧約聖書で言う意味の預言者はバプテスマのヨハネの時で終わっています。またⅡペテロ2章の御言葉を読む時、聖書の中の旧約の預言者は新約の教師になぞらえられているように見えます。それで私はこれらの御言葉は終末における教師-御言葉を教え、語る者への警告、預言ととります。

 

さて、もう一つの預言は同じく終末の預言者-教師への預言です。この女-預言者は、どの人の高さの頭にも合うようなベールを作り、罠にかけると書いています。これが教師への預言なら、御言葉の教えに関する警告でしょう。間違った教えを罠のように、人々にかける働き人が出ると警告しているのです。

 

      (主の道について人々に語るバプテスマのヨハネ)

 

 

教えの罠 

そのようなわけで終末の時代に生きる私たちは間違った教えの罠にかからないようにしなければなりません。

 

ローマ・カトリック教会の場合 

今の教会の状態、たとえばローマ・カトリック教会を見る時、ここには多くの敵の罠があることを見ます。教会に集う信者たちは神を正しく信じたい、正しく歩みたいと思っているのでしょうが、しかし敵の罠が巧妙なので、はまってしまうのです。

 

私はローマ・カトリックの教えを詳しく学んだわけでもないので、沢山のことは言えませんが、しかし少なくとも以下の2つの間違いがあるようです。

.ローマ法皇をペテロの後継者、キリストの代理者と定め、その間違った教えを各教会に広める

.彼等の間違った教えを継続する体制をつくる

上記1.の教えの根拠はペテロとキリストとの間で交わされた“あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)とのことばです。彼らはこの岩とはペテロのことを指すととります。そして代々の法皇はペテロの後継者と言われています。

 

しかし、キリストが“この岩の上にわたしの教会を建てますと言われたのは事実ですが、「ペテロを全教会の最高権威と認める」と言われたわけではありません。また「ペテロの後継者に代々教会を治める権威を与える」「ペテロの後継者のいうことはどのように間違った教えでも受け入れるように」と言ったわけでもありません。彼らがこの御言葉に付け加え、その間違った解釈を受け入れたため、ローマ・カトリック教会には多くの間違った教えが法皇の名前、権威の下で入ってきました。煉獄の教え、マリヤ崇拝、偶像崇拝。そしてどのように間違った教えを法皇が語ったとしても、彼がキリストに認められたペテロの後継者なら反対はできない。反対することはキリストの権威に逆らうことになるという論理につながっていくのです。

(ペテロに「この岩の上に私の教会を建てます」と語られたイエス・キリスト)

 

 

「私的解釈」について 

 

.の理論の根拠になったのは、Ⅱペテロ1:20のみことばです。“私的解釈を施してはならないと訳されている御言葉です。彼等は伝統的にこの御言葉を、教会で語られている教理以外の教えを語ってはいけないと、禁止する時の根拠として使用しています。従わない者は異端者として排斥されるのです。

 

このことばについてバーナード・ラムの“聖書解釈学概論(以前他の牧師に紹介された本です。良い解釈学のテキストだとのことです)にはこう述べてあります。

「この聖句(Ⅱペテロ1:20)には3つの重要な解釈がある。第一はカトリックの解釈で、個人ではなく教会が聖書を解釈すべきである、という主張の証明に用いている。あるプロテスタントの解釈では、預言的章句は他の章句と切り離して解釈されてはならない、という主張の証明に用いている。これこそ正しいと思われる第3の解釈は、それが扱っているのは預言解釈のことではなく、預言の神的な起源についてである、とするものである」

 

この説明を見ると、次のことが分かります。すなわち解釈学の領域ではⅡペテロ1:20の御言葉を「私的解釈-教会で定めた聖書の解釈以外はだめ」ととる見方が必ずしも、最も正しい理解とは思われていない、ということです。むしろそのような理解には異論がある、少なくともこの著者のラムという人はこのことばをそのようには理解していないことが分かります。

 

しかし、カトリックの人々は彼らの言う神の正しい教えを守るためにこの御言葉にしたがって、他の教えを排除しました。彼らはこうすることが神に従っていることだと思っていたのです。しかし、実際は逆であり、彼らのしたことは間違った教えをどこまでも継続する結果に終わったのです。

 

ですからこれらのことから、サタンがローマ・カトリック教会にかけた2つの罠を見なければなりません。

 

誤った教えを教会内に行き渡らせること。そしてその間違いを修正できないような理論、体制を作り上げることです。そしてこれは見事に成功しているのです。多くの敬虔な信者がローマ・カトリック教会の中にもおられるでしょうが、皆等しく“あらゆる高さの頭にあうようにつくられたベールを受けているのです。

 気が付くことは、同じような誤りのパターンを多くの異端の教えも守っていることです。聖書の教えをもとに間違った教えを作り、そしてその間違いが変更できないような体制を作り上げるのです。

 

           (サタンは偽りを語るプロ)

 

 

ものみの塔の場合 

 

たとえば私はかつて一度、“ものみの塔の聖餐式に出席したことがあります。その頃、私はものみの塔の信者を伝道しており(向こうも私を伝道しているつもりだったのでしょうが)、行きがかり上、出席した方が良いと判断して出たのです。出席してみて驚いたことがあります。パンと葡萄酒がたしかに出席者-皆信者です-の間を行き渡るのですが、ただ過通りするだけであり、誰一人、手をつける人がいないのです。

 

司会者が、どうして我々はパンと葡萄酒を受けることができないのか、それは私たちは別の囲いの羊だからだという説明をヨハネの福音書の“わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります(ヨハネ10:16)との御言葉から説明していました。

 

出席している何百人もの信者の手から手へとただパンと葡萄酒がただ過通りしていく、これは異常な光景です。そしてそのことに誰も異を唱えないということにさらにびっくりしました。そして、このような体制を見事に作り上げるサタンの惑わしの巧妙さを改めて感じたわけです。

 

プロテスタントではどうか 

 

私たちはカトリックでもないし、ものみの塔でもない、だから惑わされてはいない。たしかにそうかもしれませんが、しかし、プロテスタントである私たちにもサタンが同じような攻撃を仕掛けていないか一度は振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。サタンがローマ・カトリック教会のみを攻撃し、プロテスタント教会にはえこひいきしているとも思えないので、警戒は必要なのです。

 

ローマ教会のようにプロテスタント教会にも誤った教えが入ってくる可能性はあります。このことも大きな問題ですが、しかしもう一つ大きな問題があります。

 

それはプロテスタントの中にもローマ・カトリックの教えのようにⅡペテロ1:20の御言葉を根拠に公的解釈以外の解釈を許さない風潮があることです。すなわち公と認められた以外の解釈をしてはいけないとの教えです。

 

ローマ・カトリック教会は伝統的にⅡペテロ1:20の御言葉を、公的解釈以外の解釈をしてはいけないというように読みとってきました。その結果、彼らの間違いは変更されることなく、修正されることなく現在まで続き、そしてもしかすると再臨まで続くのです。

 

プロテスタントの多くの教えは間違っているわけではありません。しかし、全てが完全に正しいかどうかは分かりません、神のみ知るのです。私たちの目には全く正しく見えても、ある日、神によりその間違いを示される人があるかもしれません。しかし、その人にはそれを指摘する方法がありません。なぜなら、私的解釈-すなわち公に認められた解釈以外はだめなので、語る余地は無いのです。公に言われている以外の解釈を考えたり、まして公表することは、この御言葉に反することなので、彼には永久に教会の誤りを正す機会は無いのです。

 

しかし、たとえそのような不合理があっても、このⅡペテロ1:20の御言葉がそのように-公的解釈以外はだめ-とたしかに語っているならそれに従うべきなのです。すなわち神がそのように意図して語られたなら、それに従わなければならないのです。神が語ることこそ正しいからです。しかし、この言葉、“私的解釈と訳されていることばの原意は“それ自身の解釈という意味で、“公的解釈以外はだめとの考えにはつながらないのです。

 

ローマ・カトリック教会が“わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てますとのことばの解釈において間違えてしまった時、教会に罠をかけられてしまいました。

 

誤りの霊的な力-サタンの築いた砦-

 

ローマ教会にかけられた同じ罠は“私的解釈とのことばに関して、プロテスタントのいくつかの教会にもかけられているのではないかと私は思っています。誤りには霊的な力があるのです。なぜなら、これはサタンの築いたとりでであり、ここを死守している限り、サタンの優位は揺るがされないのです。

 

このとりでを攻撃するつもりなら、サタンの大きな反対と攻撃を覚悟しなければならないのです。しかし、主は御言葉の中でこの罠を外し、ベールを取り去り、人々を解放すると約束されました。

 

私たちは主が語っておられることを正しく捕え、神の御言葉に関する主の御心を成していきたいと思います。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-