サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第51章 主に聞くこと 

 

~正しく主のことばに聞かないなら、神の前で誉れを受けることはない~ 

 

【テキスト】Ⅰサムエル記15:1328

13.サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」

14.しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

15.サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

16.サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

17.サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

18.主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

19.あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

20.サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。

21.しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

22.するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

23.まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

24.サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。

25.どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

26.すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」

27.サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。

28.サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。

 

 

 

本日は、「主に聞くこと」という題でメッセージします。サムエル記から、テキストに沿ってみていきます。

 

13.サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」

 

主の声に従う、正しく従うということは、主の弟子として大事なことです。ここでサウル王は自分では、主のことばを守ったと言っているのですが、しかし、このことに関して議論があります。

 

14.しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

 

主はアマレクの全ての人、全ての家畜の絶滅を命じたのに、なぜ、家畜である牛の声が聞こえるのかとサムエルは問いただしているのです。

 

15.サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

 

ここでのサウルの弁明は、

1.自分は民の声に従った

2.たしかに主のことばどおり、アマレクの全ての家畜を絶滅しなかったが、しかし、この残した良いいけにえをもって、神の前に献げものをするから、神も喜ばれるだろう

 

こんな主旨になります。これは現在でも繰り返されるクリスチャンの失敗です。

 

民の声、人の勝手な声に従い、神のことばをなおざりにする、聞き従わない、よくあるパターンなのです。今では、教会総会だの、役員会だの、民の声が大いに尊重されていますが、しかし、繰り返して言いますが、少なくともこのような方法、民の声を優先して、神のことばを曲げる、それは聖書の方法ではありません。この世の声に従い、同性愛擁護、フェミニズムに従い聖書を書き換える、これはみな神の方法ではありません。

 

また、代わりに良いいけにえを捧げるから、問題無いという弁明はよく聞かれる言い訳です。いけにえとは何かと言うと、現在では、奉仕のことを指します。賛美のいえにえとは、賛美の奉仕のことを言うのです。

 

たとえば、カトリックでは、大いにいけにえ、奉仕が語られています。孤児院運営やら、貧しい人への奉仕などです。しかし、それらの奉仕、いけにえをもって、神が明白に語られたことばを否定して良いかというとそれは良くありません。すなわち、神のことばに逆らい、偶像崇拝をし、マリヤを礼拝することは良くないのです。いくらいけにえ、すなわち奉仕があっても神のことばを守らないなら、それは受け入れられないのです。

 

16.サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

17.サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

18.主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

19.あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

20.サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。

21.しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

 

ここでは、サムエルのことばとサウルのことばの間に行き違いがあり、食い違いがあります。片方は、「御声に聞き従わなかった」と言い、他方サウルは「自分は主の声に聞き従った」と言っているのです。

 

どちらかが正しく、どちらかの言い分が間違っているのです。ここで間違っているのは、もちろんサウルであり、彼は実際はそうでないのに、自分は主に聞き従ったと思い込んでいるのです。

 

なぜ、このような行き違いが記されているのかと言うと、このような行き違い、勘違い、思い違いは教会における奉仕において、度々起こることだからです。

 

良いいけにえを沢山ささげたのだから、私は良いことを主の前に行った、そういった類いの誤解です。

 

しかし、主の声に逆らい、聞き従わないなら、これらのいけにえ、奉仕は主を喜ばすことはできない、逆に、従わないゆえに、あるべき座から降ろされてしまう、そうここでは語られているのです。

 

22.するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 

さて、ここでいけにえ、奉仕に関する聖書の大原則が語られています。結論は、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれない」ということです。

 

ですから、いくら全焼のいけにえ、すなわち御霊に満たされた奉仕があったとしても、それは、神に聞き従うことに優るわけではない、大事なのは、主の声に聞き従うということ、そう語っているのです。

 

残念ながら、多くの人々がこのことばに逆らって立っています。カトリックの人々は多くの奉仕をしますが、しかし、主のことばに聞き従わず、あの悪霊マリヤの霊を野放しにしています。また、進化論を受け入れ、創世記の神のことばを放り出しています。

 

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

 

聞き従うこと、耳を傾けることはいけにえ、奉仕にまさり、また、雄羊の脂肪、すなわち油注ぎにまさるのです。

 

「耳を傾ける」ことが特筆されていることは、特徴的です。ここでのサウルの問題、失敗は、主の命令、ことば、語ったことを正しく聞いていない、話半分、まともに取り扱っていない、このことにあります。

 

神の言われたことばの範囲を尊重もしていないし、また、誠実に全てのことばを行おうとも思っていません。

 

サウルは大ざっぱに主の命令を受け取っています。アマレクを攻撃しろ、やっつけろというのだから、とりあえず攻撃した、成功したのだから、何も問題はない。王であるアガグは殺さなかったが、生けとりにしたから、まあ良し、民が牛などのいえにえを無駄に殺すのを嫌がったので、まあ、それも良しとしよう、神にいずれ、いけにえをささげなければならないのだから、手間も省けた、そんな風に自分の考え、判断、善し悪しに従って、神の命令を理解しており、神の使命を行っているようで、その実、ほとんど自分の考えに基づいているのです。神の命令の中で納得しないところ、無意味と思えるところは自分の判断で変えたり、一部実行、残りは不実行としています。そして、結果として、彼は王位から、退けられています。

 

このような方法、人が神の上に立ち、神の命令の中で、不適切と思われる箇所は自分で勝手に命令を改ざん、変更する、このような方法は神に受け入れられなかったのです。明白に明確にサウルのこの方法は、退けられたのです。

 

こんな風に大ざっぱに神の命令を受け取り、自分勝手に判断、変えている人々は、我らがキリスト教会において枚挙にいとまがありません。

 

神の裁きの言葉を変えて、イスカリオテのユダも救われるとして、とんでもないセカンドチャンスを繰り広げる人々、はたまたクリスチャンが艱難時代に遭うという教理は納得できないとして、もう一回再臨を増やし、キリストが艱難の前、もしくは中に再臨して、艱難から助かると人間的な教えを追加する段階携挙説者たち、はたまた人間が地獄で裁かれるとは不都合であるとして、地獄はもう無いことにしてしまった、「大変勇気のある」ローマ法皇様などなどです。

 

本当にこんなトンデモ教理を繰り広げる人々は、勇気と知恵と大胆に満ちた人々です。あろうことか、神の方法、御言葉は不適切、問題があるとして、付け加え、改ざんし、神を叱責し、勝手に教えを改ざんするのですから、その勇気、神にもまさる知恵にはほとほと恐れ入ります。大変なものです。

 

しかし、これらの人々は無知であり、サウル王の誤り、彼の受けた罰から何も学んでいません。

 

彼らは、良い教え、すなわち人間にとって、良い教えさえあれば良しとして、神に聞くより、いけにえ、奉仕を優先するお声系の愚かな人々なのです。

 

ここでサウルの失敗から、我らが学ばなければならない点があるとするなら、神の命令、教えはよくよく、注意して聞くこと、勝手に人間的な考え、判断に基づき、一部改ざんしたり、不実行にしたり、しないことです。人間的には理解できないことでも、その裏に神の深い配慮があることがあり得るからです。

 

かつて神はモーセの時、十戒を与えました。その教えは今の現代に住む我々にとって、古めかしい、時代錯誤の教えに見えないこともないかもしれません。偶像を礼拝するな、そんなことを今の時代のクリスチャンである我々に言われても、バアル、アシェラの時代に生きている我々に何の関係があるのか、意味の無い教えだ、そう思いやすいのですが、しかし、この教えは今でも否、今こそ意味があります。

 

偶像崇拝のたとえの意味合いは現代の器崇拝です。ビリー・グラハム礼拝にすっかり入れ込み結果として、彼の偽り、すなわち近代神学を受け入れたり、カトリックを受け入れるという誤りにすっかり、日本の福音派は引きずり込まれています。それもこれもあのインチキ男にほいほいついていき、聖書の教えを放り出して、何でもかんでもこの男の教えに追随した、福音派リーダーの偶像崇拝のゆえなのです。私が知る限り、日本には、面と向かってこのインチキ偽り野郎の偽善を指摘した勇気ある牧師はいません。ただ一人小石牧師を除いては。みな、誰も彼も偶像崇拝に興じ、盲目となっていたのです。

 

23.まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 

そむくことと占いとがここで関連付けられています。占いは、たとえば、街角の手相占いのように、人々の未来について語ります。しかし、これは、神に聞くというより、おかしな霊、悪霊の指示に従うことです。

 

だから、私たちが神に従わず、教えに背くというとき、悪霊の声に聞き従う、そのゆえであるという可能性があるのです。

 

このことは事実であり、終末の悪霊の教えはいくつも教会内に入りこんでいます。いわく、キリストの再臨をもう一回増やして2回にする2段階携挙説などはその代表です。

 

また、悪霊降臨のベニー・ヒンのリバイバルを大歓迎するヘンテコ系なども恐らくこの悪霊の教えでしょう。

 

「従わないことは偶像礼拝の罪だ」

 

ここでは従わないことは偶像礼拝の罪であることが語られています。このことも暗示的です。

 

どうして、人が神の明白なことばに従わないのかと言うと、偶像崇拝、すなわち器を神の命令、ことばより優先するからなのです。

 

2段階携挙説は聖書のどこにも根拠が無い教えなのですが、一部の神の器が受け入れるため、大いに日本のキリスト教会で受け入れられています。いわく、中田重治が受け入れたからと言って、ホーリネスで全面採用されています。また、ウォッチマン・ニーが受け入れているからといって、こんなトンデモ教理を受け入れている人もいます。しかし、このような風にインチキ教理を受け入れる人々は、聖書の御言葉より、人の器を優先していることを理解すべきです。

 

あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 

神のことばを退けるなら、その王位から退けられます。

 

24.サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。

25.どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

26.すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」

27.サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。

28.サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。

 

サウルは神のことばを誠実に行うことをせず、結果、王位から退けられました。これは我々に対する警告です。もし、我々が正しく主のことばに聞かないなら、神の前で誉れを受けることはないでしょう。

 

今はどんな時代でしょう。神のことばに正しく聞くことをせず、結果、勘違いのいけにえ、勘違いの奉仕が盛んに行われている時代です。

 

ちまたには、神に聞かず、聖霊と悪霊の区別もつかず、ベニー・ヒンを始めとした悪霊の器を追いかけている人々がいます。はたまた、神にきかず、魔術的なヤベツの祈りに狂奔している愚かな牧師もいます。さらに神に聞かず、中東の色の白い偽ユダヤ人に入れ揚げている愚かな和製シオニストも複数存在します。

 

しかし、サウルの時も今も、正しく主の御声を聞かないなら、王位から退けられてしまう、このことを知りましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-